2008/08/12(火)23:31
代替可能性再考
IT革命の本質は、
人間から情報を切り離して管理できるようになったことかもしれない。
ここで綴った文字は、バナーのアフィリエイト広告に反映される。
テキストマイニングのひどく原始的なやり方ではあるが、
私が書いた文章が、私からも、書いた文章からも離れて、
一つの情報として、
別の情報に変換される。
家電量販店のポイントカードも
私や、私が買った電化製品とは別の場所で、
次の購買を誘発する何かのデータを形成している。
私のデータが一部を構成するデータ郡を用いて
購買を誘発する人間は、
私ではなく、私のような
私と似た趣向を持った人間。
私は、その人を知らない。
本当は、そんな人いないのかもしれない。
貨幣経済の延長にある私の代替可能性がより一層加速していく。
もはや私は代替可能なのではなく、
なんらかの情報の集合体。
代替可能どころか、ドットで描かれた画面の淀みのようなものかもしれない。
例えば、牛乳から得られる無限に近い情報
「どこどこの牛から得られた牛乳
何時何分に絞られた牛乳
どこどこのスーパーで購入された牛乳」
と
私から得られた情報
「○年○月○日生まれ
昨日、コンビニで何を買い、
今日、どこで何を食べ、何時に寝た」
この2つに違いはあるのだろうか。
労働力としての機械と人間の代替可能性。
効用を得んがための貨幣による代替可能性。
情報としての物体と人間の代替可能性。
私たちは、切り刻まれて、そして
何かになっていく。
売られる体
売られる私の情報