やっぱり読書 おいのこぶみ

2005/10/06(木)12:19

「イヌワシのように」丸山健二(集英社)1981年出版

読書感想(317)

家の本棚にあるおびただしい本は私の本ばかりではない。ふと見つけたこの本、「鉛のバラ」で一読した作家である。「おや?」と思い、すぐには手離せなくなるほど夢中で読んでしまった。 『何事であれ、知らずに通り過ぎるようなことを、私は他にも沢山やっているのだろう』 とは北村薫の『六の宮の姫君』の一節。 「カラチ」「海」「月と花火」「夜釣り」「イヌワシのように」の5短編集。 自己確立の希求とそれにともなう孤独。それを激しく求めるあまりに怠惰がほの見えてくるのまで感じられる。 しかし、厳しく自己と向き合い、諦めたくないという気持ちがこんなに込められている文章を私は外には知らない。 どれも一人称で語られ、「私」や「ぼく」に名前はついてない。 たとえば「月と花火」(唯一『わたし』の性別が女性だが) 盆地にある温泉郷で生い立った『わたし』はもうじき出て行こうと決心している。このままいれば適当な人と結婚させられ、この閉塞感いっぱいの地で老いてゆかねばならない。 この地最後の記念に花火見物をしようと、ひとり『二本松の丘』に登ってきた。猥雑な土地人や両親とは『混じりたくない。』みんなは祭りだ。一張羅を着込み、ご馳走を飲み食いし、騒ぐ。突っぱねなければ、何を強いられるか! その最後の花火見物に、今年は近所の『ヨネさん』という、寝たきりでしばらく会ったこともなかった老婆を預けられた。重箱のご馳走とお茶を前にしてリヤカーの上に毛布にくるまって身動きもせずいる『ヨネさん』。 『わたし』は『ヨネさん』のようにはなりたくなかったのだ。盆地の外へ出たこともなく『働いて働いて歳をとり、ある日倒れ、誰からも見限られてしまう』 呆けている『ヨネさん』は『わたし』のみはり役で置かれたのではないだろう。しかし、花火が始まり、ばか騒ぎがはじまり、露骨な性的興奮に包まれると、死んだようになっていた彼女が盛んに飲み食いし、歌いだし、踊りだすではないか。これはなんなんだ! 驚いたものの『わたし』はそれを受け入れ、決心はしたのに踏み出すことに怖気づいている『わたし』を恥じる。『わたし』に出来る!という力を与えるものが存在し始めたのだった。 花火が終り静まって『ヨネさん』も静まり、ただ月の影がススキの原を占めているのだった。『わたし』は疲れた。 とここで終わっているのだが、諦めたくない、翔びたいとの強烈な余韻が残る。他の4編もテーマは同じだ。 そういえばこのテーマではエリカ・ジョングの「飛ぶのが怖い」もあったっけと思い出し、「鉛のバラ」はその航路の果ての物語なのではないかとも思う。読み返したい本である。

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