2016/01/09(土)15:14
主たるは誰の人生か
フローベル『ボヴァリー夫人』
去年の初夏に新訳を読了したが感想は詳しくブログにしていない
思い出してみる吉田健一の『文学人生案内』第一章「文学に現われた男性像」
に小説には女性が華やかに、かつ悲惨に焦点を当てられ
中心になって描かれているのが多い、男性には光が当てられてない
という記事にはわたしは目をひらかれる思いと書いた吉田氏はこの本の中で「フローベルの『ボヴァリー夫人』」
という章で詳しく、文学論のような感想をも書いていてらっしゃるのだけど
第一章のように副主人公の男性ボヴァリー氏については掘り起こしていないただ
「フローベルは人生など何ものでもなく、充実か虚無かのふたつであると思っている
思想のもとに描いた」と結論付けているしかし先の「文学に現われた男性像」に吉田氏が触れられているのは
田舎娘エンマをボヴァリー夫人にするだけのボヴァリー氏ではない
読者に印象付けられる特異な人物なのであるというそう、ボヴァリー氏は脇役ではない
最初から最後まで登場するというだけではない
夢見るばかりで実人生をふわふわ追いかけ、きれいなものが好きで
浮気や浪費を限りなくするエンマ・ボヴァリー夫人を
強烈に愛するエネルギーある人物なのであるどうしょうもない女性を愛してしまったら、一緒に奈落に落ちるしかない
強い強い男性なのであるだからエンマが破産して自殺してしまったら
抜け殻となり死んでしまう、生ききった男性主人公なのであるそれで「ボヴァリー夫人はわたしだ」と作者は言ったのである