やっぱり読書 おいのこぶみ

2018/01/31(水)08:13

『キュリー夫人伝』エーヴ・キュリー

名作の散歩道(90)

マリー・キュリーは科学愛と努力について言う​人はどの時代にも興味ある有用な生をいとなむことができる。 要はこの生をむだにしないで「わたしは自分にできることをやった」 とみずからいうことができるようにすることです。 これがわたくしどもに人が要求しうるすべてです。 そして、またそれはわたくしどもにわずかばかりの幸福をもたらすことのできる唯一のことがらです。 ・・・やはりしじゅう、唯一の目的にむかって辛坊つよくはげみましたが、そのさいわたしは真理のあるところ以外ではすこしも確信がもてなかった。人生ははかなくそしてもろい、それは背後になにものこさない。 ほかのひとびとはこれを全然べつなふうに思念することを知っていたからです。 わたしたちはめいめい自分の繭をつむぎましょう。なぜとか、どういう目的とかたずねないで。​そして夫ピエール・キュリーは​どんなことが起ころうとも、たとえ魂のなくなったぬけがら同然になろうとも、やっぱり研究をつづけなければならない。ノーベル賞のダイナマイトもそうですが、ラジュウムの発見も人間に素晴らしい便宜と非情な不幸をもたらしました。科学・科学技術は諸刃の剣と言うは易き、情熱をもって探求心を突き詰めていく努力は並大抵の信念ではありません。 と、白水社版の『キュリー夫人伝』をもう30年以上前に読んだ時の感想であります。 この記事をアップするためにネット検索をしてみました。 ネットって恐ろしいというか、孤高の(だかどうかわたしの思い込みかも)二回もノーベル賞を受賞なさった科学者の意外な面があったのですね。 ​ ​これは知らなかった。キュリー夫人の不倫騒ぎで決闘は2回行われた(動画追記)​ 少々長い文章ですが転記してみます。​ノーベル賞を2回受賞したマリ・キュリー(Marie Curie)夫人は、夫亡き後、妻子ある男性と恋に落ち、それがもとで決闘が2回行われた数奇な運命の人でもあります。今日はそのお話を。--「アンリ・ベクレル(Henri Becquerel)教授が発見した放射線現象の共同研究で特筆すべき類まれな貢献をあげた」ことでマリ・キュリー夫人が夫ピエールとともにノーベル賞を受賞したのは1903年のことでした。夫婦は仲睦まじく、研究では互いに互角の関係。ふたりは受賞を祝い、再び研究に邁進する生活が続きました。そんな夫婦に数年後、突然不幸が襲いかかります。1906年、キュリー夫人は最愛の夫を事故で失います。4月19日午後、土砂降りの雨の中、ピエールは道を横切ろうとして、軍服6トン分を載んだ馬車に轢かれてしまうのです。即死でした。悲嘆に暮れる夫人にフランス政府は年金の申し出をしますが、夫人は自分と子どもの食い扶持ぐらい自分でなんとかできるからと言って断り、夫の死後すぐ職場に復帰。ピエールに用意していた職位を継承してくれというパリ大学の意向を受け入れ、同大初の女性教授となります。その時の心境をキュリー夫人はこう書いています。 「ショックで打ちのめされて、未来に向き合う気力さえありませんでした。それでも私は夫が生前よく言っていたこと、自分がいなくなっても研究は絶対続けなきゃならないという言葉を忘れることはできませんでした。」 無理からぬ面もあります。その時キュリー夫人はまだ齢38。未亡人として余生を生きるには早すぎる年齢です。ほどなく傷心の夫人の目に止まったのが、夫の教え子だったポール・ランジュバン(Paul Langevin)です。ランジュバンは研究熱心で天才肌なところがピエールそっくり。彼は亡き夫が残した心の空洞を埋める人でした。しかも「立派な口ひげ」をたくわえたイケメンでもあります。ただひとつ問題が。ランジュバンは妻子ある男性だったのです。しかしそんなことはものともせずふたりは恋に落ちます。ランジュバンの浮気は実はこれが初めてではありませんでした。夫婦仲が冷め切っていて、報道によると一度は奥さんに瓶で頭を殴られたこともあるとかないとか(浮気が多かったことを考えると殴られる方にも非はありそうですが)。ところがそれまでは他の女性と散々浮気を繰り返しても見て見ぬふりだった奥さんが、なぜかキュリー未亡人には怒りが爆発、嫉妬の亡者となります。夫が未亡人と密会場所のアパートを借りたと知るや、そこに人を送り込んで家からふたりが交わした親密な手紙を盗んでこさせて、別れなかったらふたりの関係をマスコミにバラすわよ、と脅したのでした。それでも関係が続いたのか、ランジュバン夫人が単に予告履行に固執したのかは定かではありませんが、夫人はマリ・キュリーの2度目のノーベル賞受賞の3日前に手紙をマスコミにリーク、世論を巻き込んで慰謝料と子どもの養育費の支払いを求めたのです。新聞は大騒ぎ。キュリー夫人のことを、フランス人の妻子から男を奪った誘惑女と書き立てます。当時は右傾化の激しい外国人排斥の時代。ポーランド人であるキュリー夫人は格好のターゲットです。ユダヤ人でもないのに誤報の繰り返しでユダヤ人と思われていたこともバッシングに油を注ぎました。調子こいたマスコミは挙げ句の果て、不倫は夫ピエール存命中から始まっていた、とまで書きます。事実無根の話ですが、あまりのことにノーベル委員会まで怖気をなし、スウェーデンで開かれる授賞式には出席を見合わせてパリに留まってくれなどと言い出す始末。不倫スキャンダル渦中の女性がスウェーデン国王に会うなんて考えるだにおぞましい、というわけです。そんな中、「人にどう書かれようと、スウェーデンには絶対来なきゃだめだからね」と、キュリー夫人の擁護に回ったのがアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)です。こんなクズどもには言わせたいように言わせて無視を通すのが一番だ。…それでも野次馬が書くのをやめないなら、あんな戯言、もう読むのをやめればいいんだよ。どうせ毒蛇みたいな連中相手の作り話なんだから、読むのはそいつらに任せればいい。一方この騒ぎのとばっちりで決闘は2回行われました。まずライバルの新聞2紙の編集長同士の決闘。ランジュバン夫人の主張の信憑性をめぐって日刊紙ジル・ブラ(Gil Blas)のM・シャベツ(M. Chervet)編集長と極右機関紙アクシオン・フランセーズのレオン・ドーデ(Leon Daudet)編集長の間で行われたもの。武器は剣。本番では「数度に渡る激しい鞘当て」でDaudet編集長が負傷し、和解しています。もうひとつは、渦中のポール・ランジュバンと、彼を「無法な臆病者」と叩いたグシュタヴ・テリー(Gustave Tery)記者。名誉毀損だとしてランジュバンが銃による果たし合いを申し出たものですが、こちらは勝負になりませんでした。いざ本番になったら「フランス随一の逸材をこの手で殺すことはできない」とテリー記者が撃つのを拒み、ランジュバンも「俺に人殺しはできない」と銃を下ろして終わっています。これが大々的に報じられたことで結果的に不倫騒動も終息。ランジュバンは夫人と法廷の外で誤解を晴らして歩み寄り、後日ヨリを戻します。もっともランジュバンは凝りもせず、秘書との間に隠し子をもうけたりしてますが。キュリー夫人の方はといえば、委員会からの勧告にもめげず、スウェーデンに飛んで2度目のノーベル賞を受賞しています。スウェーデン国王とは11品フルコースのディナーで同席しましたが、万事つつがなく済みました。ノーベル賞の2回受賞はキュリー夫人が人類第一号です。これはしかし、キュリー夫人が命を削って成し遂げた偉業でもありました。1934年、夫人は白血病の病に倒れ、この世を去ります。ラジウムの存在証明のため何トンもの廃鉱石を大釜で1000万分の1まで煮詰める気の遠くなるような作業をこなすなど、長年の研究の間に電離放射線を大量に被ばくしていたんですね。今でもキュリー夫人のノートは防護服なしで触れないほどの放射線を発し続けているのでした。 (本稿は「Today I found out」より許可を得て再掲しました。筆者エミリー・アプトン(Emily Upton)は、毎日楽しいトリビアを紹介して人気のサイト「TodayIFoundOut.com」のライターです。)​​ 今更これを見つけたからって、このお嬢さんが書いた伝記から受ける印象は変わりませんが、エネルギーの源は多方面に作用するということが分かった気がします。 この記事のおまけに​・キュリー未亡人とランジュバンはそれきりヨリを戻すことはありませんでしたが、キュリー夫人の孫娘エレナ・ジョリオ=キュリー(Helene Joliot-Curie)さんはランジュバンの孫息子ミシェル(Michel)さんと偶然結婚しています。さすがのランジュバン夫人も墓石の下。孫の代まではなんとも手の下しようが…。​​​ とあります。何とも面白いですね。 ​

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