2008/04/15(火)16:49
カフカ再読/茨木のり子「歳月」
村上春樹「海辺のカフカ」再読。
「中田」という名字がふと目に留まり、そう言えば海辺のカフカにナカタさんって出てきたよな…と思いついてなんとなくめくったら、いきなり手首をつかまれてぐいっと物語の世界に引き込まれ、上巻の頭からわしわし読み返す。
平行してすすむふたつの世界の物語。メタファーと哲学。陰と陽。明と暗。朝と夜。少年と老人。入り口の石。奇妙な和音。いくつかの死。空っぽのナカタさん。森。どちらでもない、大島さん。
村上春樹の小説を読むことは、ヨーガをするのと同じような精神安定効果がある。
(ちなみにわたしの母はむかし、「ノルウェイの森を読むと精神が不安定になる」と言っていた)
村上春樹を読むと、家事や雑用をこなすのが面倒でなくなる。
瞑想するような気持ちで、ひとつずつ敬意を持って体を動かすことができるようになる。
甲村記念図書館が、ほんとうにあるといいのに。オリーブ・グリーンのチノパンをはいた大島さんが、先の尖った鉛筆を手に、「ようこそ」と言ってくれる。そこには冬の間、シチュー当番がいて、思う存分本を読むことができ、おなかが空けばおいしいシチューとパンが振舞われ…と、いかん。妄想にクラフトエヴィング商會が混ざってきた。
茨木のり子「歳月」。
2006年に茨木のり子さんが亡くなった後、「Y」という箱から見つかった一連の詩を編んだ詩集。
「Y」というのは、1975年に亡くなった茨木さんの夫、三浦安信さんの名前の頭文字で、つまりこの詩集に収められた詩は、茨木さんが亡き夫への思いを綴った言葉たちなのだ。
最初に本屋で手にとったとき、「占領」という詩を目にして、大げさでなく手が震えるほどびっくりした。周りの人も、本棚も、ここが書店であることもすうっと遠のいて、ちょっと泣いてしまった。
茨木さんと言えば「汲む」とか「倚りかからず」とか「自分の感受性くらい」とか、端正で穏やかで、どちらかと言えばおとなしい優等生的な「静」のイメージを勝手に抱いていた。
けれどこの詩集に収められている言葉の激しさ、温度の高さはどうだ。
「静」どころか、たったいま傷口からあふれてきた泡立つ鮮血のようなことばじゃないか。
愛は深くなればなるほど死に近づく。
この先の年月で、わたしは、わたしたちはどこまで行けるだろう。