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2007/10/24(水)22:39

京都大徳寺高桐院

京都観光(106)

        も~っと京都!!大徳寺塔頭高桐院細川幽斎の子の忠興(三斎)が幽斎の菩提を弔う為幽斎の弟の玉甫(ぎょくほ)和尚を開山として慶長6年(1601)に建立した細川家の菩提寺です。三斎は、父幽斎から文化人としての教育と武道の教育を受けた戦国武将です。また、千利休が秀吉から堺へ蟄居を命ぜられた時多くの弟子たちは秀吉を気遣い見送らなかった中で、三斎と古田織部だけは淀の港から利休を見送りました。三斎の正室のガラシャ夫人は明智光秀の三女でしたが、光秀の謀反に組しなかったのは三斎が武人として明晰な洞察を持っていたからです。後に関ヶ原の戦いに先立ち石田三成の奸計に落ちるのを拒んだキリスト信者のガラシャ夫人は38歳で家臣に槍で襖越しに胸を突かせて自害されました。書院  桃山時代利休の聚楽屋敷を移築したものです。襖絵は、狩野安信の筆で、屏風は良尚法親王の筆です。書院入口の横の鶏の屏風は、狩野探幽67歳の筆です。茶室松向軒  江戸時代初期松向軒(しょうこうけん)は三斎好みの黒壁で明るさを押さえた二畳台目の茶室です。三斎66歳1628年の建立で秀吉の北野大茶会の時の松向軒を真似ています。天井は、真(板)行(竹)草(わら)の三つに分かれています。六角型の石灯篭  鎌倉時代三斎とガラシャ夫人の墓です。元々、利休が天下一と名付け愛用していたもので秀吉と三斎から請われた利休はわざと灯篭の一角を壊し秀吉の所望を断り、後に秀吉の恨みをかいました。利休切腹後に遺品として三斎に贈られました。三斎は83歳で肥後熊本で死去し、遺骨を灯篭のしたに埋葬しました。また、灯篭の横の墓は熊本藩主細川家歴代のものです。袈裟型の手水鉢加藤清正が朝鮮出兵の時に朝鮮王城の羅城門の礎石を持ち帰り三斎に贈ったものです。こだわりの温泉宿ツアー草津温泉鬼怒川温泉 詳しくはこちらからどうぞ京都観光ツアー        も~っと京都!!  

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