2007/06/23(土)22:29
峠最速伝説
御厨市からそう遠くない某峠は、地元レーサーの聖地だった。
毎夜、限界の速さを競い合う中で俺は様々な熱い走りを見てきたが、
一度たりとも忘れられないのは、あの男――
「成龍」と渾名される、御厨の伝説となったレーサーだ。
成龍は元々伝説に足る走りをしていたわけではない。
走り屋暦2年に満たなかった俺ですら、勝った事が一度や二度はあった。
俺から見ても安定したレーシングスタイルでない事が見て取れたが、
今思えばそれは、最速の探求に没頭した奴の心情が現れていたのかもしれない。
そんな走りを二年半も続けた頃、成龍は御厨市から姿を消した。
別れの言葉も無く、皆から理由を噂されるわけでもなく、峠を卒業して行く多くのレーサーに埋もれちまった。
大方の認識はそんなものだったろう。
俺も走る日々を続けるうちに、成龍の事など忘れてしまった。
だが、奴は帰ってきた。
あれから二年は経っていただろうか、峠に集う面々も多くが入れ替わっており、
奴を覚えているメンバーは片手の指で数えられたかもしれない。
それでも、初めて奴を見た者でさえ成龍の空気に圧倒された。
今の成龍は、何かが違う。
最初にその相手をしたのは、他でも無い俺だった。
峠の下り、1対1のシンプルなレース。
あれから俺も腕を上げ、自信と言うものを掴みかけていた。
それでも、あの頃から変わらないマシン、変わらない格好をしたはずの成龍を見ると、得体の知れない不安に襲われる。
審判役の手が振り下ろされた。
エンジンの唸りが変調し、タイヤが路面を噛む。
スタートダッシュは互角。
あの時と同じく、エンジンの性能差はほぼ無かった。
そうなれば、勝負を決めるのはコーナリングである。
高低差の激しい御厨の峠においては、突然出現する急カーブのライン取りこそがテクニックの要であった。
内側を走行する俺のロードスターが一瞬早くカーブへと突入する。
あれから二年だ。
このコースを走った経験が、理想のラインを動くように体に覚えこませている。
滑らかな侵入。遠心力がグリップ力の限界を超え、横滑りを始める。
バックミラーには成龍のRX-8。
その軌道はふらつき、安定しない。
(奴は、昔と変わらない!)
タイヤがグリップ力を取り戻すと同時に、アクセルを力強く踏み抜く。
ここで引き離せば勝利は揺るがない。
徐々に加速し、直線に乗る俺のマシンの横を、
成龍のRX-8が追い抜いて行った。
伝説は成った。
あれから成龍に挑んで勝利した者はいない。
理解し難いコーナーでのマシンの挙動は、振動から路面の状態を読み取り、
目に見えない「真の」最適のラインを取ったのだ、と奴は言っていた。
どうにも信じがたい話だ。
それが真実であるのかは、誰にもわからない。
成龍は峠に現れる事が無くなってしまったからだ。
伝説は成り、成龍は伝説に還って行った。
あのレースに負けた直後、奴が言った言葉は深く印象に残っている。
曰く、4000年の歴史を学んだのだ、と。
もはや再現する事の叶わないそのテクニックを、奴はこう呼んだ。
「酔転」、と。
免許の取り消しの上に欠格期間2年らしいですね。