★ 東浩紀・大澤真幸 『自由を考える―9・11以降の現代思想』NHKブックス 2003年5月
「9・11」以降、人と権力は、根本的にその性格を変えているのではないか?本日、ご紹介するのは、現場から理論を鍛えなおすことを謳い、「自由」そのもののをターゲットに、「9・11」以後の社会の変容について論じた、魅力的な対談集です。自由、そして権力について考えたい方は、ぜひご覧ください。………え? 古いぞって?。参ったね。ちょっと前に、『宮台真司解体新書』のレビューを書いた所、遊鬱さんからそんなもの既出よ、お~っほっほっほっほっ、とお叱りを受けてしまいました。まことに、返す言葉もありません。というのも、この本も読んでいたからです。ダメですねー。ただ、前のが「論壇プロレス」なら、こちらは「思想のガチンコレスリング」。理論をめぐる対談集のおもむき。むしろ、こちらの方が、有用度が高いともいえるでしょう。内容は3章立ての対談集第1章は、「権力はどこへ向かうのか」第2章は、「身体になにが起きたのか」第3章は、「社会はなにを失ったのか」第1章では、「第三の審級」「大文字の他者」の衰退という観点を共有する、両者の丁々発止のやりとりが面白い。人を恣意的に殺すものであった前近代権力に対して、はじめて人を「生かす権力」として、人口を固有の問題として前景化させた「近代的権力」。この「生権力」は、「規律訓練型権力」と結びつけて考えられていたが、実は違うのではないか。規律訓練型社会から環境管理型社会への転換は、「生権力の肥大化」ではないか。人を動かすパワーを、法・規範・市場・環境(アーキテクチャー)に分類するなら、権力が「環境」の形を借りて、徹底的に無意味で「考えても仕方がないもの」として浸透し始めているのではないか。それは、理由もなく捕まえられた後で、「捕まえられたことに対する人間的な理由を考えよ!」と自己の罪状を告白させられたスターリニズム的権力を、よりいっそう卑俗化させたものではないのか。今、社会は、自らの「動物性」(環境)を否認するため、「人間的な物語」を求めさせる事態を出現させているのではないか。もはや、「セキュリティの肥大化」「住基ネット」「監視カメラ」などの「過剰さ」に、まともな理由など存在してしない。権力はすでに刷新されてしまった。ここで、「過剰さ」を古典的な権力概念から批判することは、むしろ真の脅威の「飼い慣らし」にすぎない。あらゆることが透明化され、官民一体となって、いつ、誰が、何をしたのか、その責任が追及できる社会が生まれようとしている。この新しいスターリニズム的「記名化」の権力とは、「客観的な主体化」というブキミな事態を生むだけではない。固有性と単独性(偶有性)―――私としての同一的=固有な主体と、それに寄りそい支えている、私が他人であったかもしれない、可能であるが必然ではない、そんな確率的な交換可能性―――の内、 単独性(偶有性) ―――それはジョルジュ・アガンベンが明らかにしようとした、主体性・固有性の剥奪された悲惨な生、ムーゼルマン(剥き出しの生)がそれでも持っていた「もう一つの主体性」―――を奪い、逆用するものではないのか。第2章では、「シュミラクル」と「データベース=情報管理」の2層構造をとなえる東浩紀の理論が検討の俎上にのぼる。ここでも、ジョルジュ・アガンベンが参照されている。 「ゾーエー(生物的身体:オイコスへ排除されるべきもの)―レイバー―動物化(剥き出しの生)―データベース」と「ビオス(政治的身体:ポリスにおいて主題化されるべきもの)―アクション―ヴァーチャル化(象徴界的ネットワーク)―多様性演出(シュミラクル)」。この2つを接合させ、コントロールする<生権力>。前者による後者の包摂をとなえるアガンベン、後者から前者の原身体性への回帰をとく大澤。ここで東はあらためて提起する。<前者のセキュリティ化、後者のスペクタル化>によって、両者のラジカルな「乖離」が進んでいるのではないか。「酒鬼薔薇聖斗」「リストカット」とは、「剥き出しの身体」と「機械的なコミュニケーション」、どこにも「人間がいない」中で、この2つの乖離を短絡させようとして失敗した試みではないのか、と。大澤も、人間的コミュニケーションの極限には言語さえいらない、間身体的な感応、動物的なるものが出現するのではないか、と東の提起を拾う。「乖離」と「短絡」は、なぜ今、急速に見られるのか。ここで大澤は、「第三の審級」の後退=「私の不在」を、「痛みの実存」を「実存の痛み」に転換させて埋めようとするためではないか、と提起する。怪物化する情報技術は、一方で、自由といえば自由(シュミラクル)、他方で、管理といえば管理(データベース)の、分裂した社会像を生みおとす。この2つをつなぐ補助線がみえない。「何かヤバいのではないか?」と思っても、これを告げる有効な言葉がない。「技術的に危ない」ことを述べたくても、有効な選択が何か提起できない。あまりにも技術依存が進んでしまい、技術者が価値中立的な提言をおこない、市民が合理的な議論をおこなうシステムそのものが失効してしまっている。「科学的な知」「真理」―――第三の審級のひとつ―――が分裂して、その権威が失効する中で、いかなる「自由」が構想可能であるのか。2名の悩みはつきない。第3章では、あらかじめ特定できない、なにが強制的に排除されたか分からないけど確実に排除されてしまう、環境管理社会における自由について議論される。全面的な固有名化=個人認証の拡大。人間的自由は最大限保証されながらも、フィルタリング・個人認証によって、「動物的」なまま管理する社会の出現をどう捉えるべきなのか。もはや批判は、人間的レベルではなく、動物的レベルでなされなければならない。何を欲望しているかを伝えてくれる「フィルタリング」などの情報技術や「ブロザック(他者の承認の欲望を満たす抗鬱剤)」などは、機械や薬物であるが、人間の人間たるゆえんを代行してしまう。このとき、奪われてしまうものは何なのか。「記述主義的還元」では還元できない、固有名のもつ「余剰」なのか(大澤)。それとも、「固有名」と「確定記述」の区切りが出現するために必要な「誤配可能性」(東)なのか。コミュニケーションの中に宿る、「余剰」「誤配可能性」を減らす情報技術の進化は、神の超越性を支えた誤配の消滅、誤配・偶然に耐えられない社会の出現を意味しているのではないか。フーコー的主体は、ビッグ・ブラザー型の全体主義的権力、「見られていること」を引きうけることによって出現した。その無根拠性にたえられないものは、パノプティコンから消えることを「見えなくなること」を望んでいた。ところが環境管理型社会では、「人間であること」の無根拠さから逃避するには、確定記述・データベースを積みあげることによっても可能になる。つまり「見られていることの不安」ではなく、『見られていないかもしれない不安』があるのではないか。批判よりも権力の現実が先行している中で、権力より前衛に立つには、どうすればいいか。大澤は語る。動物的生にまで貶められ、すでに人間的には死んだ存在でありながら、その死をこえて生き残る―――権力に取りこまれる際、その手がかりとなるポジティブなものがなにもないがゆえに、排除するしかない―――「ホモ・サケル」がもつ反転のメカニズムの解明こそ、環境管理型権力の支配を超える可能性が胚胎しているのではないか。否。動物化と環境管理型権力は、資本主義の必然ではないか。今、「自由」とは何なのか。この書に示された4つの答えは、我々の行く末の困難さを示してあまりあります。面白いのは、大澤が俄然、この3章では元気になっていることでしょうか(笑)。マルクスの提起した「疎外」「物象化」と同様の、今の時代を鋭く切りとることができる、「新しい概念」を提起できないことに苦悩する2名の対談。どこまでも刺激的でたいへん面白い。論点は、他にも多岐に及んでいます。カフカ「掟の門」は、古典的権力・シニシズムのメタファーか(東)。それとも、現代的権力のメタファーにも使えるものなのか(大澤)。「掟の門」「匿名の自由」を<無意識>と捉えるか否かは、最大の争点といえるでしょう。他にも、「多重人格」現象と環境管理社会の同時代性と共通性の指摘。また、「第三の審級がどの身体レベルで機能しているのか」によって人類社会を3つ―――「抑圧身体(冷たい社会)」「集権身体(王権社会)」「抽象身体(資本主義社会)」―――にわける大澤社会学の紹介。もはや動物化する社会では、アディクション(依存)を批判することはできない。哲学は、ゾーエーをビオス化させ、動物が人間にさせた後の社会を論じていたからこそ、ゾーエーをゾーエーとして直接管理する時代の到来に対応できず、心理学にその場をゆずってしまったのではないか ……… つねに弁証法的に自己矛盾させて否定神学的な議論を展開したい大澤真幸と、それに批判的な東浩紀の対話は、なかなか読みごたえがあって面白い。ただ、対談集だけあって、微妙にずれていないか、と思われる部分も散見しているのはたしかです。この辺、「論壇プロレス」だけでお釣りがくる『波状言論S改』と違い、やや微妙かも知れません。とくに、カオス理論と環境管理型権力の同型性という議論は、あまりピンと来ません。ハイデガーにおける、人間と動物と石の区別。「世界が貧しい」=動物という区別は、あまりにもおさまりが悪いことは確かでしょう。しかし、動物が、どうしてカオス―――個々の分子のランダムな動きが、法則に従ったものとして捉えるとき出てくる、非常に複雑だけど美しい秩序ある状態を可能にする―――として位置づけられ、人間(秩序)と石(混沌)の間にあるもの、となるんでしょう? 東浩紀の提唱する2層構造論と、どう接合するのか。何度読んでもさっぱり分からなかった。「マルチチュード」「動物」「サバルタン」が同一に論じられるのも…読んでいて面白いことは確かですが、さすがに飛躍がすぎるのではありませんか? まあ読者サービスなのかもしれませんが。とはいえ、哲学と社会学の交差する領域でおこなわれた対談集。2年以上前に発売されているのに、古くなったことをあまり感じさせないのが驚きです。現代社会における様々な諸問題を再確認するためにも、ご覧頂きたい書物になっていることに疑いありません。現代思想の「前衛」を点検するためにも、ぜひご一読ください。評価 ★★★☆価格: ¥1,071 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです