★ 柄谷行人 『世界共和国へ ―資本=ネーション=国家を超えて』 岩波新書(新刊)
▼ 資本・ネーション・国家の異なる3つの原理が、それぞれ接合して形成されている資本主義。ソ連崩壊以後、資本主義に対抗するために、どのような世界を構想すればいいのか。その難問に答えようとする本が、岩波新書から出ています。著者は、柄谷行人…NAMをほったらかして何をしているんだか…。▼ 本書を貫く視角は、国家やネーションを交換様式でみるとどうなるか、である。これはなかなか刺激的であった。 ▼ 柄谷は、「統制-自由」「平等-不平等」の軸で、19世紀~20世紀の政治・経済史の理念軸を整理する。統制・平等を指向するA「互酬-ネーション-国家社会主義」。統制・不平等容認のB「再分配-国家-福祉国家資本主義」。自由・不平等容認のC「商品交換-資本-リベラリズム・新自由主義」。一方、自由にして平等なる、D「X-アソシエーション(真の社会主義)-リバタリアン社会主義」は、理念として折にふれ構想されてきたものの、かつてこの世に出現したことは無い。▼ 生産とは、人間と自然との物質的交換様式に他ならない。生産様式だと、廃棄物・自然破壊を見ることができない。柄谷は、マルクスが以前提唱しながら発展させなかった交換様式(交通形態)から入ろうとします。氏族的社会は互酬。アジア的、古典古代的、封建的な各社会は、再分配。資本主義社会は商品交換が支配的交換様式であるという。アジア的社会(構成体)では、互酬的共同体を下部にかかえつつ、再分配が支配的な社会であって、すでに常備軍・官僚制など、国家機構を完成させていたらしい。古典古代・封建社会は、アジア的帝国の周辺に成立した社会にすぎない。資本主義社会では、互酬が「想像の共同体」ネーションとして回復される。国家は、福祉国家の相貌をとり、資本=ネーション=国家という結合環になる。この社会では、商品交換によって開かれた自由の上に、互酬的交換を回復しようとするDのラインの社会運動、アソシエーションが生まれてくるという。▼ 交換が共同体と共同体の間に発生するように、国家は「共同体と共同体の間」に発生する。交換の際の略奪を防ぐ。それが国家と法の機能なのだという。そのため国家は、商品交換に先行するし、国家は、決して共同体や社会に還元できない。互酬原理は、国家=再分配の原理が登場してもなかなか消えない。古典古代、ギリシアの民主主義は、ヘロドトスのいう「東洋に対する西洋の優越」ではない。互酬的共同体の名残であって、集権化できなかっただけにすぎない。周辺であるローマ帝国のそのまた周辺で生まれた封建社会。それは、被支配階級レベルはいうに及ばず、支配階級レベルでも互酬原理の支配する社会であったが、その「自由都市」は後のブルジョア社会を育んだという。「C 貨幣(資本)」は、商品世界の共同作業であって、AやBとは違い、人間に対等な関係をもたらしてくれる。しかし、商品と貨幣は非対称であって、これを補うのが信用であるという。Dラインは、普遍宗教として立ち現れる。呪術から宗教へ移行するには、互酬的関係が断ち切られる必要があるらしい。普遍宗教とは、貨幣による交換が支配的な社会、都市に基盤をおいた共同体・国家への反逆であり、商業的資本主義にも抗して互酬的共同体を回復する試みであるという。▼ 第三部「世界経済」も面白い。国家、産業資本主義、ネーション、アソシエーションの順番で、考察がすすめられてゆく。福祉国家が生まれたのは、近代ではない。また産業資本は、商品流通における特殊商品、使うことが生産過程である労働力商品を見いだすことによって成立するという。その剰余価値は、労働者の買い戻し、すなわち「流通過程」にしか存在しない。この様な、資本主義の自己再生的システムも、本来商品にならない労働力と土地を商品にしたことで、その限界にぶち当たる。労働力は、需要の多寡で廃棄や増産ができないからである。資本に対抗するためには、労働者が資本家に対して不利を強いられる生産過程(現場)ではなく、消費者として現れる地点で戦わなければならない。ネーションは、宗教に替わって人々に不死性・永遠性(B・アンダーソン)を与える。国家と資本主義経済という異なる交換原理は、ネーションという想像力によって、結びつけられる、あたかも感性と悟性が想像力で結びつけられるように…。▼ 普遍宗教は、ネーションの成立とともに、その本来的性格を取り戻すというのは、なかなか意表をついていて楽しい。教会=国家的システムに回収される普遍宗教を批判しない限りアソシエーショニズムは実現できないが、アソシエーションは普遍宗教が開示する自由な互酬性(相互性)の上に立脚しなければならない。資本主義、すなわち貨幣と商品の非対称性があるかぎり、アソシエーションの実現は不可能である。19世紀社会主義が、平等と友愛を取り戻そうとして国家にたどり着く中で、プルードンだけは自由に立脚して友愛を切り捨てようとした。友愛は、個人の犠牲(自由の犠牲)を引き出す。そのため国家的強制は、友愛によって強化されやすい。プルードンもマルクスも―――バクーニンの批判とは異なりプルードン派であったという―――国家が共同体と共同体の間にあることを忘れ、その廃棄が一国レベルの問題ではないことをみていない。革命は、一国でも世界同時でもできない。「下から」とともに「上から」国家を押さえ込まなければならない。▼ それこそが、カントの提唱する『世界共和国』の理念であるという。国民国家枠組無効論、新「帝国」概念の出現―――それはネグリ&ハートでも同じことだが―――いずれも、国家が資本とは別の交換様式として存在していることをみていない。カントは、永遠平和のための国家連合が、理性や道徳ではなく、反社会的社会性、すなわち戦争によって達成されると考えていたという。国家を内部から否定するだけでは揚棄できない。われわれに可能なのは、軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡させて、「上」からの押さえ込みをはかる、この道筋しかない。そう語られて本書は閉じられる。▼ 何よりも、国家とは内部からできるものではなく、他の国家、外部との関係においてのみ存在するものなのだ、という考え方には、元ネタはレヴィナス~デリダから採ったのですか?などと思ったものの、なかなか感動させられた。またマルクスは、Aラインの人物と考えられているが、実はDのラインというのもお約束。国家の自立性を見ようとしないことが、後のマルクス主義が国家社会主義に転化する原因になったらしい。絶対王政とは交換様式BとCの結合によってもたらされたものである、呪術師から祭祀階級への移行は交換様式AからBへの移行である、などという明快な整理には、唸らされるものがあります。「暴力の独占」「貢納制ではなく商品交換に立脚」「国家とは、安寧と服従の交換である」「臣下として均一化されない所に、市民は出現しない」…国家の本質は絶対主義王政段階にあらわれる。国家を手段視するものは国家に手段とされる、など箴言の類も、相変わらず面白い。複雑な親族構造を部族間における女性の互酬的交換からみるレヴィ=ストロースなど、文化人類学まで幅広く狩猟されていて、たいへん楽しめた。▼ ただ読了後、いささか落胆したのも、まぎれもない事実である。そもそも、国際連合による「上」からの国家掣肘を!!、という、ごく普通の結論に至るまで、ここまで紙幅を費やす必要があったのか。 ファンでないものは、はなはだ疑問に感じてしまうだろう。 そんな、意味不明なロードマップを読むくらいなら、より過激に「ヤマト保険」などとふかしていた、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(講談社)を読んだ方が、はるかに有意義ではないか?。 むろん、これにはカントの「統整的理念」と「構成的理念」の区別立てを持ち出していることからわかるように、アソシエーショニズムは前者であって後者ではありません、という言い訳がきちんと用意されている。とはいえ、決して達成されるものではない故に、たえず現状を批判するものとしてあり続けるもの。その距離の取り方は、柄谷が激しく批判してきた「シニシズム」「アイロニズム」の構造そのものではないのか。どのように考えているのか、いまいちよく分からない。▼ また日本は、アジア的ではなく封建的であるとか、周辺ではなく亜周辺であったから中国など文明の影響を選択的にとりこむことができたとか、他者にもたれかかった安易な議論が多すぎる。これでは、「新しい教科書を作る会」や『国民の歴史』とほとんど変わらない。また、「自由・平等・友愛」は、3つの交換様式(それぞれ商品交換、再分配、互酬)を表したものだという下りも、読んでいる分には面白いが、いざ考えてみると、後ろ2者の順番は逆でもあてはまるのではないか?(平等=互酬、友愛=再分配)という疑念も、チラホラと湧きあがってきて、なかなか脳裏からぬぐえない。▼ ただ、一読をお勧めしたい本ではあります。評価は70点といった所でしょうか。評価 ★★★☆価格: ¥777 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです (おまけ)柄谷行人『可能なるコミュニズム』太田出版 1999年 ¥1,680 かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』講談社 ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです