★ 「小谷野敦 VS 佐藤優」 紛争のくだらなさ 佐藤優 『自壊する帝国』 新潮社、2006年5月
▼ 「佐藤優という『罠』」『アエラ』4月23日号を契機にして、佐藤優と小谷野敦は、論争というか、論争にもなってないというか、空中戦・盤外戦を演じているのはご承知のことであろう。 ところが、この紛争、はやくも小谷野敦の劣勢。 山崎行太郎ブログで皮肉られているが、むべなるかな。 ▼ 遊女の平均年齢をめぐる論争といい、macskaとの論争といい、小谷野敦のネットでの論争姿勢は、人を不快にさせるものが多いが、『アエラ』というパブリッシュ・ペーパーでやった以上、言い訳がきかない。 この人の仕掛けた論争で、はたして、まともなものがあったのか。 こんなやり口では、門外漢の人間に、不信を感じさせるだけだろうに。▼ 「猫を償うに猫をもってせよ」で、佐藤優批判の予告めいたものがあった。 佐藤優を全面否定しているような雰囲気だった。 そうなると、否が応でも『アエラ』を期待するだろう。 ところが、あけてびっくり玉手箱。 佐藤優は「言論キムイルソン」「みのもんた」といった、悪口のみ。 肝心の佐藤優批判は、天皇を重要視して『神皇正統記』を称揚するけど現在の天皇は北朝系じゃないか、9条改憲すれば天皇がなくなり、天皇がなくなればファシズムになるなんて論理はおかしい、というもの。▼ なんだかねえ。 「つまらん」としか言いようがないだろう、これでは。▼ 佐藤優なんて、ソ連崩壊ものを立読したことがある程度だが、「戦争放棄」ならぬ「天皇放棄」を唱えるおいらでも、小谷野敦の批判はまるで体をなしていない、と感じざるをえない。 今の天皇至上主義者たちは、今上天皇が北朝の子孫であることなど、「都合が悪いから無視している」なんてレベルではなく、心底、「どうだって良いから無視している」「なんでそんなことが問題になるのか分からないから無視している」に決まってるじゃないか。 ▼ だいたい、『神皇正統記』が「南朝」のみのイデオロギーを指していたのは、南北朝時代だけだろう。 南北朝の時代が終われば、南朝正統を立証する以外にも、転用可能性が開かれる。 そもそも、後醍醐天皇に対する批判的見解ものっている『神皇正統記』は、「南朝イデオロギー」とすら言いがたく、純粋な「北畠親房イデオロギー」なんじゃないの? 『神皇正統記』は、「南朝の正統論のはずで、だとするといまの皇室は北朝の系統で、それについてはどう思っているのか」と聞かれても、誰だって「はあ?そんな勝手な理屈、誰が決めたのですか」としか言いようがない。 実際、佐藤の回答も、木に鼻をくくったようなシロモノだった。 ▼ まあ、天皇制を廃止するとファシズムになる、という佐藤に対して、『そもそもファシズムの原点であるイタリア・ファシズムは王制の下で生じているし、では米国、第三共和制以後のフランス、第二次大戦後のドイツ、イタリア等、共和制の国でどの程度ファシズムが生じたのか、実例をもって論じてもらいたい』と言いたい気持ちは分からないではない。 しかし、肝心の小谷野敦は、 「未来を予測するなら、過去の歴史を根拠にしなければならないはずだ」と、「飛躍」「論証なしに議論」していることに気づいていないのだから、まったく始末におえない。 ▼ それ以上に致命的なのは、小谷野敦の評論家としての「地頭の悪さ」、が露呈してしまった点かもしれない。 ▼ しばしば小谷野は、天皇制を批判する自分こそ左翼、みたいなことを嘲弄まじりに左翼に向け語っているが、真の左翼なら「共和制でファシズムになる、という以上、今の日本がファシズム状況下でないとでもほざく気か!!佐藤優!」くらい言わなくてどうするんだ。 小谷野は左翼を舐めすぎである。▼ だいたい、未来予測に厳密な根拠(それも歴史)を要求するのは、「共和制はファシズムにならない」と反証できないからにすぎまい。 だからこそ、相手に根拠を求めるのだろうが、政治の未来予測に対して、歴史を根拠に議論せよなんて、どう考えても辻褄があっていないだろう。 歴史は繰りかえすから、などと非科学的なことを言うつもりではあるまい。 もっと他に反論方法はなかったのか、と愚痴りたくなる。▼ そもそも小谷野敦は、「共和制は、ファシズムの苦難をくぐり抜けても、実践されなければならない」と、何故、啖呵を切れなかったのか。 どうして、「共和制は、ファシズムになるかならないかに関わらず、たとえファシズムの可能性があろうとも、断じて実現すべき価値を有するものである」ことを力説できなかったのか。 ほんとうに共和主義者ならば、極論すれば、「ファシズムの試練を潜らなければならないからこそ、共和制は素晴らしい」と、言っても良かったはずである。 「たとえファシズムになったとしても、共和制は、ファシズムの危険性なんて問題にならないほど、固有の価値がある」といえない小谷野に、共和主義者を名のる資格があるとは、到底、おもえないのだが。 ▼ 「素朴な実証主義者」と山崎行太郎が「好意的」に書いているが、要は「実証」に逃避しているのである。 批評家としては、致命的なまでにつまんない。 そんなことでは、マルクスどころか、とっくに「過去の作家」になりさがっていた、高橋和己の読み直しまで連載してしまう佐藤優に、勝てるはずがないではないか。 ▼ 佐藤の「圧力」もあって、小谷野は『文学界』の連載を降板させられてしまったらしいが(幸運なことに、と言うべきか、私は読んだことがない)、なんともむべなるかな、といった所である。▼ なお、表題の佐藤優『自壊する帝国』新潮社は、なかなか面白い著作。 足で稼いだ人間にしか理解できない皮膚感覚で論じているので、客観性にはいささか難があるものの、崩壊直前のソ連社会の様子が、くわしく描き出されていてとても面白い。 とくに、ブレジネフ政権下のソ連社会の分析は白眉に近い。 一応、一読をお薦めしておきたい。 評価: ★★★☆価格: ¥ 1,680 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 今のブログ順位