★ なぜ「ぼく地球」以外は駄作なのか 日渡早紀 『ボクを包む月の光 「ぼく地球」次世代編 』 花とゆめCOMICS
困ったな。新作がでちまった。迷って、ほっておいたら、買うの忘れてやんの(llllll´▽`llllll)読了する。分らない部分が出てくる。そんで『ぼく地球(たま)』を読み直す羽目になってしまった。読み直して驚いた。やっぱり圧倒的に面白い。全21巻。万人がこれより面白いとみとめる少女漫画なんて、いくつあるんだろう。そんなの、無いんじゃないか、と思うくらいの至福の喜びをふたたび味わった。やっぱり、凄いッすよね。はじめ読んだときは、ショックさえうけた。「時空」をこえた2つの惑星。「前世」と「現世」。よくてSF、悪くいえばオカルトにすぎない。それなのに、「前世」における謎が、ひとつひとつ解きほぐされて、圧倒的なまでの全体像が、ミステリ-仕立てで浮かび上がる。分らない面白さに圧倒された。なんというか、切迫感がたまらなかった。ある種、社会現象まで生んだ、「ぼく地球」。オカルト誌『ムー』の読者コーナー、「ムー民広場」は、「ぼく地球」の直撃をうけて、自分の「前世」を語る人々に占拠された。この面白さを考えれば、無理もない。とはいえ歳月と読み直しは、その印象を一変させていた。「オカルト」「SF」…そんな珍奇な「道具」が、その新鮮さからくる面白さを失ったとき、「ぼく地球」に潜む、本当の面白さがうかびあがってきたようにおもえた。われわれは、否、作者自身をふくめて、みな珍奇な「道具」立てに騙されていたのではないか。僕には、ずっと、不満だったことがあった。日渡早紀は、なぜ「ぼく地球」以外、面白くないのだろう。「アクマくん」、とくに「未来のうてな」以降…みんなつまらない。「ぼく地球」だけ、奇跡的な面白さをもたらしたものは、いったい、なんだったのか。あとにも、さきにも、「ぼく地球」でしか、彼女がやっていなかったこと。読み直すまで、まったくそれに気づかなかった。「ニセモノにしがみつく」「ニセモノであることが暴かれる」そう。「ぼく地球」とは、ニセモノの物語なのだ。木蓮(ありす)の膝の上で、手に入れた地球での安寧な生活をニセモノと糾弾する、紫苑(輪)のシーンを思いおこしてほしい7名は、「ニセモノ」にしがみつく。かれらは、お互いに「ニセモノ」をみせあい、遮蔽幕をはっている。その張られたスクリーンは、ずたずたに引き裂かれてしまう。エンジュ(錦織)は、玉蘭(迅八)に「友人」というスクリーンをはる。繻子蘭(国生桜)は、エンジュに「女ともだち」というスクリーンをはる。玉蘭は、手に入れられないものをみないため、周囲に良心的な人物を演じる。キチェでなければ、愛してもらえない、強迫観念に駆られる、木蓮。そのスクリーンは、つぎつぎと紫苑・輪たちによって、食い破られてしまう。王様は裸だ。ウソは、常に暴かれる。あれほどまでに、切迫感に満ちあふれたストーリーだったのは、ニセモノであることを糾弾する物語だったからにちがいない。木蓮を陵辱したい欲望を指摘された秋海棠(春彦)。前世を美しい思い出に終わらせ、基地運営から目をそむけさせたい、柊。エンジュ(錦織)の思いを知りながら、知らないふりをする、迅八。いや、ニセモノにしがみつく究極の存在は、紫苑だろう。周囲に提示する紫苑の言葉は、つねにフェイクにすぎない。木蓮とリアン・カーシュにのみ、本音を話すことができた紫苑。なにか敵を定めないと、内からもたげてくる何かに飲みこまれてしまう。それから目をそらすため、余裕あるものを、サージャリムを、敵と定めて攻撃する紫苑。ニセモノにまどわされ、ニセモノにしがみつき、ニセモノの下にうごめく「本当の欲望」にたどりつく物語。全編が、まるで心理劇。だからこそ、「ぼく地球」は傑作だったのだ。SFやオカルトや、そういった小道具に、われわれは騙されていたのだ、たぶん。以後、この主題が日渡早紀によって演じられることはなかった。今回のこの連作短編集も然り。しかし、こうもおもう。ニセモノであることが暴かれただけで、人は「ホンモノ」にたどりつくことができるのであろうか、と。輪の身体に埋め込まれた、「輪」「紫苑」の2つの主体。「月基地を壊したい」「月基地を制御したい」と叫ぶ矛盾した主体「輪」。それを、木蓮が「輪」「紫苑」の2人の違いに裁断したとき、そこにかすかな「虚偽」が混じっていなかったか。紫苑は「制御したい」と叫ぶ。とはいえ、それは「月基地」にある、あるものを確かめたいがためのウソ。いや、「あるものを確かめる」というホンモノの欲望を通して、紫苑は他の6名とも、否、「輪」という人格とさえ、「和解」し「癒された」かにみえる。この2つの「叫び」の対立は、すでに「月基地は木蓮の歌の中に沈んでいる」ことで、揚棄されたかのようだ。しかし、その過程で捨てられたものは、あまりにも大きかったのではないか。あれほどまでに紫苑を突き動かして、われわれをも感動の渦に巻きこんだ(?)「月基地を制御したい」=「地球を守りたい」という欲望。それは最後になって、そもそもニセモノだったことが宣告されてしまう。おかしくはないか。それでは、そもそもなぜ、そんなものが必要だったのだろう。「癒され」てしまえば、そんなものは必要なくなってしまうのか。われわれは何のために読んできたのか。フィナーレ。『ぼくの地球を守って』は、愛を選びとることで、感動の物語であるフリをする。それは、「ぼく地球」全編について、決定的にウソくさい物語としたのではないだろうか。思い返そう。この究極のフェイク、「地球を守る」は、表題にまでなっているのだ。だから、それをニセモノと葬ってしまうわけにはいかない。なんか、それらしい、結末をつけねばならない。地球の大気に溶け込んで融合してしまったとされる、木蓮…サージャリムによって地球は守られるらしい。キサナド(聖書)ぬきにですか? なんですか、そりゃあ。そもそも地球に、たった1人のサージャリムで、何ができるというのでしょうか…以後の日渡早紀の作品。何作か出ているので、読ませてもらっている。とはいえ、それらに共通しているテーマとは、ウソくさくしてしまった「地球を守る」をいかにウソ臭くさせないか、という代物のような気がするのだが、どうだろうか。彼女の以後のあらゆる作品は、ウソくさくなってしまった、「ぼく地球」の敗者復活戦として存在しているのではないのか?。変なSF設定。妙な社会派作品。彼女の作品を読むたびに、感じてきた違和感は、今回の読み直しでやっと理解できたようにおもえた。イデオロギーをいかにウソくさく見せないかという究極の試み。でも、あらゆるイデオロギーとは、所詮、ウサンくさい代物ではないのか。それこそ、あたかも誰もたどり着けない処へ行って貴方の真実を見い出しなさいこと、リアン=カーシュの言葉のような。とはいえ、「1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」という言葉もある。本編の1度目こそ、悲劇ですみ感動のフィナーレをもたらしたものの、2度目以降の、ウソくさくない「ぼく地球」の試みは、それこそ喜劇ではないのか。皆さんはどう思われるんだろう。<番外編>評価 ★★☆価格: ¥410 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです