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カテゴリ:歴史
![]() 久しぶりに、素晴らしい著書を読んだので、不躾だが紹介したい。 中央公論新社より発売された、佐藤卓已『言論統制 -情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』である。 鈴木庫三。 雑誌社の社史に、「戦時中の言論弾圧者」として名指しされた悪名高い人物。 反抗する雑誌社に、サーベル片手に「潰してやる」という脅しをかけたこともあった、軍国主義者の代名詞。戦時中、悪名高い、用紙統制と言論統制を実施した陸軍の代表的人物。だが、戦時中以外のエピソードが語られることもなく、誰もがその存在を深く探求することはなかった、忘れ去られた人物でもあった。理由はなぜか。著者はそこに、鈴木庫三のもつ特異な経歴と、言論弾圧による戦後の「被害者共同体」の存在をみる。こうした研究状況に、遺族の元に残された「鈴木庫三日記」と各種回想録から、一大伝記を組みあげた著者の力量には、深い感動と感謝の念を禁じ得ない。そこには、それまで省みられることのなかった、「教育の国防国家」建設を夢見た、中堅軍事官僚の迫真の「想い」が、赤裸々にまであきらかにされているからである。 鈴木庫三。茨城県出身、1894年生まれ。小作人に養子に出され、血の汗をながした青少年時代。士官学校にあがったのは、実に20代も半ば。しかも、兵科は輜重兵である。出世など夢のまた夢。当然、彼はエリートコースであった陸大の受験をうけることができなかった。しぼんだ出世への希望と野心。正義感で一徹なこの男は、陸大卒・「天保銭」グループと、「内務班」におけるイジメにも似た教育に鋭い批判意識をもちはじめ、上層部や回りとの衝突が絶えない。そしてその関心を軍隊教育の分野へとむけはじめたことが、のちに彼の運命を大きくかえるきっかけとなる。 やがて彼は、日大、帝国大学に派遣され、倫理学と教育学を習得し、日大助手をつとめた学者軍人となる。一時、学者への転職も検討していたらしい。この時、すでに30代後半、尉官クラス。本来なら大佐どまりで退職する運命が彼をまつはずであった。ところが、時は昭和維新。高度国防国家建設のかけ声の中、軍事教育のエキスパートとして、1930年代後半から歴史に登場し、一躍脚光をあびることになるのだ。 戦前の日本は階級社会であった。「農村と都会」「知識人と非知識人」「資本家とプロレタリア」…各種各層に超えがたい壁があった。都市中産層と地方の小作人の間では、言葉もろくに通じなかったとされるその時代。プロレタリアートの境遇に思いをはせ、共産主義にも共感をいだいていた彼は、「教育の国防国家」建設を夢見て果敢に推進していく。配置部署は雑誌の言論統制。宴席を嫌い、編集者とのなれあい拒否し、雑誌の「思想指導」をつづけていく日々。敵視されたものは、時局下にブルジョア的な生活を続ける自由主義者と資本家。倒さなければならないのは、不平等を前提とした教育制度。そして目標は、天皇を頂点におく、家を理想とした、平等な教育制度の実現であった。そのことを「日記」をもって逐次語らせてゆく様は、「圧巻」のひとことである。 情報官・鈴木庫三は、部落差別の解消を同和雑誌で提唱し、女性の地位の上昇に心をくだく。それだけならただの社会帝国主義者といえるかもしれない。彼は、あろうことか、日本人の生活水準をおしさげて、朝鮮人や中国人の生活水準をひきあげ、大東亜の平等を雑誌で大まじめに主張するのである。教育すらロクに受けられない貧しき庶民の視点にたつ彼。戦時下、天皇の元での<教育の平等>をおしすすめ、数々の雑誌に<国防国家>の建設と<国内思想戦>に勝つための、超人的な執筆活動。やがて満州のハイラルへ左遷され、阿蘇で終戦。戦後、言論統制について語ることなく、1964年死去。 その間、ブルジョア的特権の象徴である大学は、学徒動員によってその特権制を打倒され、戦後の六三制へむけた義務教育の延長政策も胎動する。「教育の国防国家」こそ失敗に終わったが、未曾有の総動員体制の崩壊とともに、戦時下に推し進められた平準化は、「高度福祉国家」として戦後甦ることになる。 このストーリーを、最後、著者は、大老井伊直弼の生涯とだぶらせる。「花の生涯」…おもえば、彼は、総力戦体制下でなければ、登場する機会すらなかったであろう。そしてそのわずかなチャンスに飛翔して、「小ヒムラー」とまで呼ばれることになった男、鈴木庫三。彼の一世の夢はたしかに実現した。受験戦争として。そして、「一億みな中流国家」として。 評者は、読みながら、涙を禁じ得なかった。つねづね評者の関心をひいてきた、戦前の社会主義者たちとも通底する貧しき庶民を生む体制への義憤。熱く漂っている、社会改良への真摯な夢と希望。共産主義者の夢が収容所国家として帰結したように、国家社会主義者の夢は所詮「8・15」にしか帰結しえなかったかもしれない。しかし、それが一体なんだというのだろう。共産主義は、弾圧をうけ様々な転向者を生み出した。戦争に協力して戦後公職追放を受けた者も多い。彼ら転向者は、そして国家社会主義者たちは、与えられた情報集合と条件の下で、戦前ファシズム国家の「社会改良」の夢に賭けたのだ。その賭けは、無惨にも失敗に終わったかもしれない。そして、その「教育の国防国家」「社会主義」の夢を笑うものがいるかもしれない。しかし、「高度福祉国家」「一億総中流」の夢が崩壊しつつある今だからこそ、中絶してしまった戦前の未完の夢に、少しでも思いをはせる必要があるのではないだろうか。それは、日本ファシズムの正当化などとは次元をことにするもののはずだ。その意味では、「作る会」の教科書運動など、無価値の極みでしかない。残念なことだ。 そして評者は同時に、このような貴重な「日記」にめぐりあえた興奮をかたる佐藤卓已氏に、憧憬とともに嫉妬の念を禁じ得ない。たしかにこれほど得難い史料発見の体験は、そうあるものではない。歴史家冥利につきるであろう。まず、日本史研究者にしかできない経験かもしれない。しかし、対象にしていた人物が、史料をからあつく読者に語りかけてくるような、まれな経験なら評者にもある。それが中絶させられ未完に終わる夢でしかないことを知れば知るほど、その果たせなかった想いの儚さに、そのやるせなさに、不覚にも史料の上に涙をこぼした恥ずかしい体験がある。佐藤氏は、どのような思いで、この日記を眺めていたのであろうか、いささか知りたい気分である。 ただひとつ、理論的難点をいえば、今はやりの「総力戦体制」論で押しとおされている点であろうか。なるほど、総力戦体制論は、古典的日本ファシズム論や、革新官僚論よりはるかに整合的に説明できるツールであり、評者もこの立場にたつものである。しかし、総力戦「体制」論なら、その「起点と終焉」まで視野に入れなければならないだろう。今まさに終わりつつある高度福祉国家は、総力戦体制の終焉であるのか?。総力戦体制後の社会をいかに形容するのかともども、本書では明確にする必要があったのではないかと愚考する。しかし、これは瑕疵にすぎず、本書の素晴らしさを損なうものではない。 いずれにせよ、これほどの著作が単行本ではなく、新書という形式で安価に多くの目に触れることになったのは、この上ない喜びである。これもまた、「教育の国防国家」の夢の続きであろうか。 この夢がいつまでも続くことを心から願ってやまない。 価格: ¥1,029 (税込) 評価 ★★★★★ ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 30, 2006 07:49:01 PM
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