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書評日記  パペッティア通信

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Feb 27, 2005
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カテゴリ:社会


「著者は何か、根本的な勘違いしているのではないか?」

本書を読了するとともに、評者は根源的な疑問を禁じ得なかった。

この本がつきつけた課題は大きい。日本人の心の奥底に潜む、部落差別の暗闇を暴き出した本書は、野中広務という戦後政治史において一時代を画したの存在をとりあつかったものだけに、衝撃は相当なものであった。朝日新聞の書評欄をはじめとして、この本を好意的に取りあげたものは数知れない。

内容は極めて興味深いものだ。野中広務。部落出身者。差別のただ中に生まれ、大阪鉄道局での差別事件に遭遇して、政治家への転身を決意。一生を部落差別との戦いに身を投じることになる。園部町議から議長・市長を経てやがて府議となり、蜷川虎三共産党革新府政と対決。共産党との対決を経て、やがて革新府政を終わらせて府副知事に。そして前尾繁三郎のあとをついで衆議院選に出馬。このとき57歳。その後連立の時代にあって、強力な情報網を構築して恫喝をくりかえし、従来型の自民党政治では考えられないスピードで自民党内で力を付ける。自治大臣、幹事長代理、官房長官、幹事長を歴任し、「キングメーカー」として君臨。総裁選で反小泉の人々に出馬を迫られるも辞退。小泉内閣成立とともに「抵抗勢力」として名指しされ、前回の総選挙をもって引退した。

しかし、この本は冒頭の問いに立ち戻ってしまう。一体、彼は何が書きたかったんだろう、と。

これまで読んできた政治家の伝記で、面白いと思ったものは非常に少ない。なぜなら大概、政治家の伝記とは、事績の顕彰もしくは羅列で終わるか、ヒステリックなジャーナリズムな糾弾で終わるかの、いずれでしかないものが多いからだ。数少ない例外として、ドイツ社民党の政治家、ヘルベルト・ウェーナーをとりあつかった伊藤光彦『謀略の伝記』(中公新書)。伊藤昌哉『池田勇人とその時代』(朝日新聞社)。浅沼稲次郎をえがいた沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫)があげられる。政治家以外にまで幅を広げれば、つい最近書評をおこなったばかりの佐藤卓己『言論統制』(中公新書)もそのひとつにふくまれよう。

成功している伝記とは、いずれも共通した特徴がある、と思う。
それは、「世界にとって彼らとは何であったか」ではなく、「彼らにとって世界とは何であったか」にせまった本、ということだ。

われわれがいる世界とは何か。伝記の対象者の目を通して、彼らが生きてきた世界を叙述することで、我々後世の一般人がつい抱いてしまいがちの常識=「記憶の歴史」の再構成をせまるような人物像を提示すること。これこそ成功した伝記といえるのではないだろうか。世界にとって彼らとは何であったのか。それを複数の関係者の証言を踏まえて構成するのは当然のことだ。麻生太郎総務相の差別意識など貴重な告発をおこなった筆者の取材には、素直に敬意を払いたい。しかし、野中広務の権力掌握の過程という後半部に筆が進んでいくにつれ、前半の差別をうけた青年期までの、筆者の共感に満ちた筆づかいが急速におちてくる。

彼はそのあとがきの中で、野中広務を調べていく内に「共感」と「反感」を抱いたことを告白している。魚住にとって、差別された野中に「共感」はいだけても、彼の保守政治などに「共感」どころか「反感」しか抱けない、ということだろう。後半、解放同盟関係者などで、野中の政治姿勢、日の丸君が代法案など様々な部分に疑問をなげかける筆者。素直に「反感」を吐露することは、素直じゃないことにくらべていいことだ。しかし、共感や反感などを持ち込んで叙述するくらいなら、最初から伝記を書くなといいたい。野中広務の目を通して、保守政界の様々な相貌を丹念に描きだし、野中広務が権力を掌握することができた固有の論理を提出するという、もっとも根本的なことがなされていない。それは資料の限界などではない。明らかに、共感と反感の次元でしか人物を捉えられない筆者の、野中広務とは正反対の「硬直した」姿勢にこそ、根本的な問題があったのではないだろうか?。

素材はとっくに与えられていたと思う。この書冒頭に、野中広務を「融和の子」と表現するくだりがある。部落解放同盟と野中広務の政治姿勢をわけた最大の要因、それを「融和」が推進された周囲と、「融和」を身をもって実践した野中広務の母親への熱い思いにもとめるのだ。母親の「ある事件」は、部落差別の実態をしめす、とても悲しい事件であった。そして野中の出発点でもあった。そしてその一方で、野中を調停と恫喝の政治家として叙述する。共産党と自民党、部落民と非部落民、自民党と社会党。対立が激しければ激しいほど、その「調停者」としての野中広務の役割が発揮されていくのだという。野中の、「融和」へのいとおしいまでの願いと、対立を利用して権力を狙うという、二つの像の分裂。

なにも、野中広務像を統一させよなどと、安直なことを言う気はない。しかし後者は、あまりにも世間に通行する野中イメージによりかかっただけの代物ではないか。せっかく摘出した、「融和の子」という独自の視角に、それまでの単なる「弱者の味方」とはひと味違った視角に、一体なんの意味があったのか。これでは、野中広務に「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているか」と涙まじりに抗議されても仕方あるまい。これで筆者は「評伝」のつもりらしいから、その厚顔には恐れ入る。いったい、どこに「評」があったのかまったく首をひねるばかりだ。最後に野中広務の引退は、繁栄と差別、平等と平和の入り交じった戦後社会の終焉を意味し、来るべき社会には平等と平和は存在しないのだ、とするくだりがあるが、これが「評」のつもりだろうか。社・共ブサヨク的心性を共有しない読者は、完全に「おいてきぼり」である。これのどこが野中広務固有の評なのか。竹下登でも田中角栄でも、まったく構わないではないか。これが「評」のつもりだとしたら、あまりにも読者をバカにしているといわざるをえない。

野中広務という存在を通して、戦後保守政治の一幕を明らかにするという課題は、筆者の無能力によってもちこされたままとなった。あと20年もすれば、彼らのつける日記や、周辺の日記が公開されるかもしれない。その時こそ、野中を通して、戦後保守政治の闇と実像が照らし出されるであろう。とくに野中は、その経歴といい、その見識といい、そのスタイルといいあまりにも保守政治家からかけ離れている。これを明らかにすることは、日本社会を理解する一助となるものであろう。伊藤隆の『竹下登回顧録』に匹敵する、丁寧な仕事がなされることを切に願うばかりだ。

価格: ¥1,890 (税込)
評価  ★★★





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Last updated  Nov 4, 2006 02:58:58 PM
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