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書評日記  パペッティア通信

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Mar 13, 2005
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カテゴリ:歴史
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すばらしい。
ひさしぶりに、力作の新書を読ませていただきました。昨年度、佐藤卓己『言論統制』(中公新書)以来の感動ですね。つつしんで、吉見俊哉氏に感謝したい。あたまのいい人の本って、やっぱりどこか違う。

開発主義的政治体制を担保するため、大衆の願望を「所得倍増=地域開発」で掬いあげることを必要としていた戦後日本。その大衆の願望を体感させてくれるシンボルとして、高度成長の時代がおわっても各地で再演され続けた、万博というイデオロギー装置。ここでは、このたびの愛知万博でも最大の問題になった、「開発と自然」というテーマが、とりあげられるだけではありません。知識人は、テーマや理念などの策定を通して万博にかかわりながら、なぜかくも無力で挫折しなければならなかったのか。市民は、メディア媒体の発達の中で、国家の開発政治にいかに向きあっていったのか。つらぬかれている視角は、知識人と国家、市民と国家のかかわり。そして、讃えられるべきは、「万博」という場にはたらく「政治的力学」の丁寧な解明をとおして、そこからすかしてみえてくる、この国の政治そのものを透視しようとする意思でしょう。なんと意欲的な構想の書であることか。さすがは、カルチュラル・スタディーズです。

内容をおさらいすると、「花と緑の博覧会」をのぞいた、4つの日本の万博がとりあげられています。日本万国博覧会こと大阪万博。沖縄海洋博。つくば科学博。そして、大阪万博につづいて2回目の一般博である、愛知万博。

大阪万博は、1940年、延期された東京万博の計画の実現であり、1930年代に構想された新幹線やオリンピックといった国家的イヴェントの1つであった、という指摘にはうならされるものがありました。中央エリート官僚が、産業界・メディア・地域社会を引っぱる、総力戦体制の延長としての万博。「人類の進歩と調和」というテーマには、「不調和」をかかえながらも、それでも多様な人類の智慧を信頼しようとする、知識人の強烈な理念がこめられていたのです。しかし、お祭りと企業広告と未来都市のイメージが氾濫する陰で、展示にいかされることのない、ただのお題目と化しました。来場者6400万人という大衆の欲望の波に、マスメディアはイラク戦争報道のときのように足場を見失い、市民と国家、知識人と国家における対話と意思形成の回路はとざされ、竹林の里山はあとかたもなく壊されていったのです。

あとの3つは、この大阪万博の「くりかえし」と「ちがい」として、本書では整理されていきます。1975年沖縄海洋博は、72年の沖縄返還にともなう、本土経済にくみこみ基地依存から開発依存への転換として機能したこと。知識人の考えた海洋「文明博」・「環境」博の理念は、海洋フロンティアと海底都市のイメージが乱舞する、海洋リゾート「開発」博へ、さらには沖縄北部開発のための公共投資誘致事業へと変質させられます。1985年のつくば科学万博は、さらに悲惨でした。新官庁都市計画が後退して、研究学園都市となったつくば周辺への、あらたな公共投資誘致のみが先立った万博。そこでは、居住・環境と人類というテーマは後退し、大阪万博のリバイバルとしての「情報」と「映像」の祭典へと変質し、興行的に大失敗したのです。ただ、このくりかえしの中で、万博反対運動のテーマは、反戦から環境へ、担い手は労働組合から市民団体へとかわっていくのです。

2005年愛知万博は、そのために色々な面で「過渡期」にあたるものとなりました。名古屋オリンピック=地域開発の夢の挫折、とリベンジ。しかし、「環境」をテーマにしなければならない万博が、会場となる里山を破壊しなければならない不条理は、とうとうここで爆発してしまいました。環境運動のもりあがり。市民ネットワークのひろがり。そして、市民参加が実現するまさにその頂点で、自然の叡智から従来型のお祭りへ、環境博の理念がそのものが後退してしまうというパラドクスがおきてしまいます。ここの分析は、もっとも面白い部分。ぜひ、本書を読んで確認して欲しい。

一貫してながれる、市民はいかに国家のかかわっていけるのかへのこだわり。ただ、いささか鼻につくのが、安易なグランド・セオリー(大理論)とのなれあいでしょうか。

ミクロの分析が、安易にグランド・セオリーに支えられ、繁茂することはよく見られます。ここでは、さまざまな既存の理論を参照しながら、話がすすめられてました。しかし、1980年代以降、「公共領域の解体(本書150頁)」とされましたが、公共領域の解体とは何でしょう。この書で行われた、「市民社会の成熟」という議論とは、すこしばかり齟齬していませんか? また、グローバリズムとは何でしょうか。官主導の終焉ののち、市民的公共性に反するものとしてグローバリズムがあるのでしょうか。この書では、愛知万博におけるトヨタのはたした役割を、グローバリズムに位置づけています。しかしそれが、愛知財界における関与という、ローカルではないとされる理由は、なにも提示されません。それどころか、トヨタの万博における役割が、何も検討されないまま、なぜか批判されてしまいます。トヨタは、「三菱未来館」になどの企業パビリオン出展にみられる、従来型の万博へのかかわりと、どのように違っていたのか。この質的な差異にふれないで論をすすめるのは、ただの妄想でしかないでしょう。ミクロの万博という事象を通して、ミドル・セオリーをつくり、グランド・セオリーの再考をせまりうる力量を秘めた作品だけに、いささか残念でなりません。

また、愛知万博にかかわった吉見氏は、愛知万博における万博幻想の終焉に、やや特権的な位置づけをあたえているような感じを我々にいだかせるのも、若干のマイナスでしょうか。

とはいえ、本年刊行される新書の中では、指折りの名著となることが決まったも同然の力作でしょう。ぜひ、ご覧ください。

評価 ★★★★☆
価格: ¥903 (税込)

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Last updated  Jan 2, 2006 12:35:15 AM
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