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書評日記  パペッティア通信

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Apr 18, 2005
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カテゴリ:社会
「愛国無罪」について、正しく書けているサイトがまったくない。
ネット上に史料を提供するため、昨日の続きで補足説明を書いておきます。
ネットは本当に使えねえなあ、、、と落胆しきり。


「愛国無罪」


これは、昔からあった言葉ではありますが、
今のように使われはじめたのは、国共内戦に起因します。
まあ、共産党を掃討して国内統一を図った訳です。
その分裂に乗じて、日本に満州をぶんどられた。
ところが、蒋介石はなかなか日本と戦おうとしない。
むしろ、共産党の掃討に力をつくす。
まあ、統一せずに抗日したおかげで、共産党に政権取られたのだから、
結果論として、蒋介石「反共」路線の正しさは疑うまでもありませんが。

1931年、満州取られた。
1933年、熱河がおちた。
1935年、河北省の東に冀東傀儡政権ができた。

つぎつぎと取られた上に、日本は「抗日」取締を中国に要求。
このへん、今と似ているのが笑えます。

もう、北京・天津まで目の前だ。
それなのに蒋介石は「抗日」にたちあがらない。
内戦やめろ!日本と戦え!労働者のみならず資本家までが危機感。

それでできた組織が、1936年6月の全国各界救国連合会。
前身は、中国民権保障同盟。国民党の特務機関によって、
指導者の暗殺など様々な弾圧がおこなわれた団体でした。

常務委員は、沈鈞儒ら15名。
かれは辛亥革命に参加。国会議員。
当時、上海弁護士会会長をしてました。
構成員は、蒋介石と衝突した国民党左派から共産党員、第三勢力まで。
上海では、学者・弁護士、国民党左派の力がつよかった。

軍事衝突を停止せよ!
各党・各派は共同綱領を作って統一的抗日政権を!
「抗日第一」のため、政治犯を釈放せよ!
協力して共同の敵「日本帝国主義と漢奸」を倒そう!

1936年8月、毛沢東はこのスローガンを認め、
あとは国民党の対応次第ということになった。

そんな最中、36年10月19日、魯迅死す。
上海万国公墓に埋葬される。
葬儀委員会は、宋慶齢、スメドレー、内山完造、沈鈞儒ら10名。

10月22日、魯迅葬儀。棺を見送る人々は街路に群れをなした。
沈鈞儒は、「民族魂」と素軸にかき魯迅の霊柩にそえ演説しました。

 富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず。
 これが魯迅先生の精神である。…魯迅先生は死なない。
 先生が我らの心頭にとどまり、片時も離れることがないように願っている

1936年11月、上海在華紡(日本資本紡績工場)ストライキはじまる。
反日大ストライキとなって全国に波及する。
かれらの運動ため、後援会をつくり支援する救国連合会幹部たち。

11月22日深夜、上海租界にいた、全国各界救国連合会7人の領袖の逮捕。
罪名は「危害民国緊急治罪法」違反。

澎湃たる反日ナショナリズムの高揚。かれらの闘争がはじまった。
弁護士はたちどころについた。国民党の対日姿勢への反発からか。
12月5日、蘇州に護送される彼らは、道中、映画「風雲児女」主題歌、
35年8月にできた田漢作詞・聶耳作曲「義勇軍行進曲」を口ずさんだという。
現在の中国国歌のアレである。

聶耳は、ソ連への旅中、35年7月、日本の湘南海岸で溺死。
田漢は、文革で獄死することになる。

12月12日、西安事件。
張学良8項目要求の一つは、彼ら7名の釈放であった。
「奴隷のような境遇におかれた東北地方の同胞をおもえば、こんな苦労は」
後に彼らの一人は、こう語っている。

1937年4月3日。江蘇高等法院検察官は起訴。
6月11日、「七君子」裁判が開廷。
弁護団は、法廷を抗日救国運動のためのプロパガンダの場に
かえるべく弁護方針をたてた。
三民主義を害し、共産党とむすびついて階級闘争をあおるという罪状は、
日本の新聞などがこじつけたものに過ぎない!!と反駁。
広州では学生が、「愛国自由」と7名の無罪判決を要求。
全国各地のマスメディアで、
「愛国活動は無罪である」という論調が広げられた。

6月25日、宋慶齢ら16名は、「救国入獄運動」を発足させる。
その宣言文では、このようにのべられた。

 愛国に罪がないならば、沈鈞儒らとともに自由を享受しよう。
 愛国に罪があるならば、沈鈞儒らとともに処罰をうける!!
 ……
 我らが入獄を準備するのは、もっぱら沈先生たちを救済するためではない!
 全世界に中国人が決して生を貪り死をおそれる臆病者ではないことを
 愛国的中国人は沈先生ら7名ではないことを
 千万人いることを
 われらは知らしめたいからである。
 中国人魂は死なない。
 中国は永久に亡びない!!


7月5日、宋慶齢ら12名は、上海から蘇州にむかった。
蘇州につくと、ただちに自分たちを牢獄に下すように要求する。
7月31日午後、7君子は群衆の歓声をあびながら保釈。
沈鈞儒は齢60を越えていたが、釈放後、新聞記者にこう語ったという。
 
 今日、監獄の門を出たが、敵に抵抗せよの声があまねく全国に及んでいる
 のを目にした。心中とても喜ばしい。まさに最初の目的をかえることなく、
 国家と民族のための解放と奮闘を誓う

このとき、すでに日中戦争は始まっていた。

沈鈞儒は、日中戦争中、奥地にあって抵抗活動をつづける。
ただし、国民党にも共産党にも属さない、団結抗日の民主派として。
1941年、中国民主政団同盟を結成。
1944年、中国民主同盟を結成。

1945年、第二次大戦に勝利後、今度は国共内戦がはじまる。
国民党の弾圧をうけて非合法化される民主同盟。方針転換させた沈鈞儒。

1948年、民主同盟は、反蒋介石の立場を鮮明にし、共産党と協調する。
1949年10月、中華人民共和国成立後、沈鈞儒は最高人民法院院長になる。
1954年、全人代常務委員会副委員長に。
1963年、6月、逝去。89歳。

救国会や民主同盟の同志は、反右派闘争でつぎつぎと倒されていった。
長らく中共の国家副主席をつとめ、「国家名誉主席」の称号をおくられた
宋慶齢が死んだのは、1981年のことである。
死の直前、彼女は共産党員になったという。
彼女は、死の直前まで党員ではなかったのだ。
昨年、蒋介石夫人、宋美齢(宋家三姉妹三女)死去。
享年106歳。

愛国無罪は、「愛国に罪はない」といっていたのではない。
愛国が有罪であるならば、その罪をひきうける覚悟の言葉として発せられた、
自らを牢獄に入れるようもとめた反政府運動のスローガンである。

今はどうなのかは、知らない。
ただ、かれらの路程をみるにつけ、民主への遠い道のりを悼むだけである。

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Last updated  Jan 21, 2006 04:41:43 AM
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