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カテゴリ:サブカル・小説・映画
![]() すごすぎます、高屋先生。 ずっとファンでした。しかし、まさか、これほどとは…。 少し勘がよい人なら、誰でも気づきます。 「フルーツバスケット」には、「父」がどこにもいない。 大文字の他者、象徴秩序の担い手の不在。 いても、なんと影の薄い… 主人公は本田透。 とても優しい、女子高生です。 草摩一族。十二支にそれぞれ1名、12人います。 異性(男なら女)に抱きつかれると、その干支に変身してしまいます。 「猫憑き+神様」もいて、主人公格は14名です。 「十二支+猫」は、神様に逆らえません。 かれら14名には、なにか特別な「絆」=「呪い」があるらしい。 それをめぐる学園ドラマ。恋愛もの。おまけに、ヘタな絵です。 どうして、こんな作品が熱心に読まれ、アニメにまでなってしまうのか。 リアリズムに毒されたものには、理解できますまい。 しかし、これが無茶苦茶凄い。 さまざまな過去の傷をかかえ、生きていく登場人物。 伝えたいのに伝えることができない。 そんな、悲鳴のような思いをつづって、深く内面への沈潜をつづけてゆくのです。 あまりにも濃密な、ドロドロした二者関係が、丁寧にえがかれてゆく。 病気からの復帰後、高屋先生に訪れた「神に愛された」かのような全盛期。 一読者として、その瞬間に立ちあえる、無上の幸せを噛みしめたものです。 作品のつむぎだされる、そのひとときを作者とともに楽しめる。 なんという贅沢な瞬間でしょう。 ずっと思っていたのです。 本田透は、傷つきあう二人をむすびつけては、「消えてしまう」癒しの「媒介者」 貨幣・法として機能する、大文字の他者=「父」のような存在。 「排除」されたシニフィアンとして、象徴界に回帰してくるもの。 二人の間でつむがれた、あまりにも不安定な関係をいったん断ちきり、 それから安定化させてゆく、そんな存在ではないか、と。 慊人さんは、透君を憎んでいます。 それは、たとえば、津田雅美『彼氏彼女の事情』では、 情けない男3名に平安が訪れるために、 「母」が排除されることが必要だったように。 「聖性」と「穢れ」を一身にまとい、「排除」されることで出現する、 そんな「玉座」をめぐって争う物語だからではないのか、と。 それなのに。 慊人さんが「女性」とは… すでに紅野は、十二支の「絆」、いや「呪い」から解放されていたとは… 慊人は、紫呉をうばい、自分を「男」として育てた母をにくんでいたとは… 紫呉が、その慊人さんを抱いてしまうとは… わたしには、もうこの作品がどうなってゆくのか分からない。 それがなぜだか、とてもうれしい。 十二支の「絆」 それは、象徴=言語によって去勢される前の、イマジネールの喩えなのか。 それとも、不可能な「物」=現実界の喩えなのか。 人との差異を「絆」に見出し、ヒステリックに執着する、慊人。 それは、「絆」を失うことを恐れつづけた、ひよわな女の子の姿でした。 十二支をしばっていた「内なる声」=「絆」「呪い」から解放されたはずの紅野。 「絆」が失われたときの、涙を流しながらの言葉が忘れられない。 「……もう 飛べない…」 紅野は、慊人の欠如を埋めることで、 自分の「欠如」を埋める途をえらんでしまう。 そして悦びとともに、慊人にとらわれてしまう。 慊人も、紫呉の欠如をうめることで、己の欠如をうめてしまうのだろうか。 ふとおもう。 欺瞞は、どこにあったのだろう。 むろん、「呪い」の側ではない。われわれ人間の「現実」の側にある。 言語に住まわれてしまい、「現実」から遮蔽されてしまった人間。 人はもはや、言語を通してしか接触することができない。 絆は「呪い」ではない。 やはり、言語をこえてふれあえる、「何ものか」の喩えだ。それを失うのは、「成長」でもなんでもない。失えば、もはや、言語で構造化された現実に、われわれとおなじように囚われるしかない。 自己の欲望を相手に投影すること。 決して交わることのない、誤認によってつくられる「愛」 相手の欠如をうめることが、みずからの欠如を埋めることになる「愛」 ただ、わたしたちは知っている。 相手の欠如を埋めることで、自らの欠如を埋める。 そのような「欺瞞」は、ここフルバでは、許されることはない。 欺瞞は罰せられてしまう。楽羅の「つじつまあわせ」の恋のように。 それは、悲しい話だった。しかし、確かな救いでもあった。 ドロドロの物語のはずなのに。 そして、とても悲しい物語のはずなのに。 それでいて不思議と、居心地のいい、 爽やかな世界。 その秘密は、お互いがお互いにむけて、「欠如」を埋めあうことにある。 囚われていた人は、やがて欠如をうめてくれる人にめぐりあい、 その人の欠如をうめてあげられる、そんな存在になれるはずだ。 二十名以上の複雑きわまる「欠如」の連立方程式が、解かれてゆくにちがいない。 この先、どれほどの壮大なカタルシスと感動がまちうけているのだろう。 評者には想像もつかない。 まちどおしい。 紫呉の、紅野の、慊人の、棟さんもまた、 結び目は、紐解かれてゆくのだろう。 相手の欠如を埋めてあげることで、自足する欺瞞は、放逐されるはずだ。 静かな日々は、やがて、かならず、訪れる。 しかし、絆を失ったことを知ったとき、 涙を流した紅野のように、 その「救済」が、なんだかとても悲しいことのように思えるのは、 なぜだろう。 それは、「欠如」を埋めあうこともまた、「囚われ」の一形態だからだろうか。 それとも、フルバが終わってしまうためだろうか。 評価 ★★★★☆ 価格: ¥410 (税込) 人気ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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