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テーマ:経済分野の書籍のレビュー(50)
カテゴリ:経済
![]() 安倍晋三元官房副長官による、ETV2001「問われる戦時性暴力」の番組改変問題。NHK放送総局長への「圧力」で、もめにもめたことは記憶にあたらしい。 なんのことはない。これを読了すれば、バカ騒ぎであることが、理解できちゃう。吉田首相の圧力による、「日曜娯楽版」打ち切りからはじまって、世論調査カット、ロッキード特番改変、沖縄テレビ調印式、佐藤内閣退陣、メディア対策指南書事件…おなじことのくりかえし。政治家への事前説明を「通常業務」とした橋本発言は、「ニューズウィーク」「ワシントン・ポスト」「ル・モンド」などの失笑を買った。今までNHKは、「政治家の圧力」を公式には一度も認めていない。つねに「編集権」による「自主規制」。その確認をまたやったにすぎないという。シマゲジ(島桂次・元会長)に裏舞台を暴露されておきながら。さすがにその厚顔ぶりにはあきれるほかはない。 NHK。 国営でも民営でもない、「公共放送」という特殊な経営形態。 本書は、国家的公共性と市民的公共性のせめぎあいという視角から、NHKと政治をめぐる通史を整理して、その存在の意味を問いなおします。 もっとも信頼されるメディア、NHK。 しかし近年、権力を監視するジャーナリズム機能が失われていることが、元会長・ニュースキャスターなど、OBの証言などであきらかにされます。それは、予算を握られているためだけではありません。「国策協力」「産業政策への協力」によって、新「財源」獲得に奔走する、NHKと政府とのあいだにおける「ギブ&テイク」によるものらしい。それが、政界担当記者の制作現場介入にみられる管理体制強化と、制作現場の閉塞・モラルの低下をひきおこし、プロデューサーの制作費着服などがもたらされた。「NHK番組改変」と着服は、表裏一体の現象なのだという。 高度な公共的機能をもつ放送は、免許制で特権的に営まれるゆえに、大きな責任をもつ。NHKは、とくに受信料という特権があるので、「ジャーナリズムと文化」の論理のみを追求することができます。しかしNHKは、「市民的公共性」の論理で書かれた放送法を、国家的公共性の論理に読みかえ、「放送の国民主権」「言論の自由市場」の理念を後退させてきた。それは、電波管理委員会の廃止によって、「放送懇談会」「許認可権」にみられるように、保守政権がメディアに絶大な影響力をふるえるようになったためらしい。「国策の徹底」「偏向報道批判」が連呼され、「編集権」という大義名分の下まかり通る、「自主規制」という名の「外圧」 英BBC放送とNHKの違いも興味深い。 本来なら、政府の介入をNHKより受けやすいBBC。にもかかわらずBBCは、英軍呼称問題やイラク報道など、政府との激しい戦いによって名声をかちえてきたという。NHKとBBCの違いは、地上波デジタル放送の推進方法にもあらわれる。莫大な設備投資の重圧に苦しむNHK。BBCでは、視聴者は2万円もしないアダプターでデジタル放送が見られるのです。「富裕層」と「貧困層」の情報格差をもたらしやすい、視聴者負担が大きすぎる方式を採用するNHK。「誰もが聴取できる」ユニバーサル・サービスの基幹部門を蔑ろにして、周辺分野でコンツェルン化したNHK。 しかし、受信料不払いで、NHKを滅ぼしていいのか。 ここで筆者は、市場原理からも権力からも自立するNHKなら、情報化社会でもその基幹情報メディアとしての機能は必要、とみています。豊かな物的・人材的力量を生かさなければならない。BBCにみられるような、視聴者参加による「民主」「公開」「説明責任」「多元主義」を目指せ。そのためには、「独立行政委員会」制度の復活、経営委員会改革と権限の強化、編集権を制作現場にとりもどさなければならない、などの改革の提言がおこなわれ、本書は締めくくられています。 「権力、メディア、民衆」の三極構造において、メディアは民衆といかなる関係をとりむすぶべきなのか。手堅い(古い?)「問題系」の整理。 「テレビジョンによる表現の自由があるとするならば、それは国民のもつ自由な意思が、テレビ放送の手段によって表現されるという仮説をとらないかぎり、国民の表現自由権を否定することになる」(本書173頁 戒能道孝) この視角は、たいへん示唆に富む。これは、すべてのメディアにおける表現の自由の根幹、「編集権」の所在をめぐる決定的見解といっていい。メディアは、国民の、そして従業員の自由の表現の手段でなければならないのです。 「編集権は首脳」にあるとした読売社説は、自らがジャーナリズムではないことを確認した、といえるのかもしれません。NHK受信料は、「契約義務制」ではあっても「支払義務制」ではない。それは、国民の総意と総体的支援によってNHKは支えられる、という立法趣旨による。ライブドアのフジテレビ買収問題にもあらわれた、「メディアは誰のものか」。一昔前、労働組合には、放送従業者の雇用をまもることで、ジャーナリストの主体的な活動をまもり、国民的要求の探求と実現を確保する道を開くことが期待されていたという。今は、だれがそれをはたすべきなのか。放送の公共性をめぐる最終決着は、あくまで国民がつけなければならない。この筆者の確信は心地よい。メディアと権力をかんがえるには、必須の書といえるでしょう。 ただ、どうしても苦言をのべたくなる部分があります。 この人、日 本 共 産 党 シ ン パ だったりするのですな。それもかなり古い。 敗戦直後の日本には、「民主化推進勢力は、日本共産党か一部の知識人しかいなかった」というのは、まあご愛嬌ですむかもしれません。しかし、労働運動の「統一戦線論」や、日放労批判(社会党の上田哲が委員長をやっていた)をバリバリやられると、その偏狭な「社共対立」のセクト主義には、ゲンナリさせられます。元日経新聞記者とは、とてもおもえん。死ぬまでやってなさい、社会党、新左翼ともども。とくに、「市民」的公共性という視角を押しだしながら、「国民」を連呼しまくられると、少し異様に感じられてしまう。「市民的公共性」は、お題目にすぎないのですか?とたずねたくなる。 岩波の担当編集者は、アカデミズムに即した議論を展開するように筆者に命じ、自立したジャーナリストとしての「編集権」を行使すべきではなかったか。もっと広い層に読んでもらう、「国民の知る権利」とやらのために。 そう思わせてしまうのが、この書の最大の難点ではないか? 耐えられないことが予測できる人には、評価は★1つ分減らしてほしい。 評価 ★★★☆ 価格: ¥735 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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