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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:政治
やや、意外な感じがします。 なにせ朝日新聞の記者です、この人。 それなのに、政府の「情報発信力」の低さについて、「戦力であり国力」でもあるメディア、という観点から問題視しているのです。それは、大メディアに従事するものとしては、「操作的公共性」への反省が、あまりにも欠けている姿勢ではないのか… とはいえ、メディアの「戦争参戦史」としては、かなり面白い。 メディア対応の大切さが、よくわかる本になっています。 日露戦争では、講和締結の圧力になったメディア。その講和会議では、小村寿太郎が最悪のメディア対応をおこない、巧者ウィッテに大敗北。第一次大戦では、検証不能の虐殺記事が捏造され、欧米メディアはプロパガンダ機関となりさがってしまいます。ポーランドがソ連赤軍を打ち破った「ビスワ川の奇跡」は報道されず、それが後の「ワルシャワ蜂起」の黙殺にもつながったのではないか、という指摘も面白い。それとは対照的に、全世界に報道されたフィンランドとソ連の戦い。ほかにも、宋美齢の欧米メディアへの巧みな対応と、日本軍の拙劣さ。フォークランド紛争では、英国は米国を引き入れるため、イラン大使館人質事件とからめたメディア戦略を展開したらしい。報道統制とプロパガンダは、湾岸戦争などで頂点に達したという。環境テロ騒ぎとなった、あの有名な水鳥写真だけではありません。「ナイラの証言」やセルビアの「強制収容所」報道にいたっては、大手PR会社によるイベントだったらしい。これには、さすがに読者も唖然とさせられてしまうでしょう。みなさまにお薦めしたい一冊になっています。 他にも興味深い内容が続いています。 ゲッペルスの強力な宣伝戦は、戦争を局地化するためで、米メディアに親ナチの記事を書かせることに、ある程度成功していたらしい。それに対して、親密なメディアとの関係を築いて、語り口で魅了し協力をひきだす、F・ルーズベルトやチャーチルのスタイル。流れなかったヒロシマの悲劇。こうした英米の「自主性を阻害しないながらも、強権を発動することをためらわない」スタイルは、やがて一世を風靡することになります。その英米ですら、朝鮮戦争では一転、公明新聞にも登場する、共産陣営の「北朝鮮被害者」像の餌食になってしまう。特派員をしめつけウソを重ねて、反発を買ってしまったらしい。ベトナム戦争では、これとは一転、検閲と取材規制なしで、協力的な報道を引き出したため、泥沼化しても報道統制ができなかったという。有名な「残酷なテレビ映像」も、当時は取材から報道まで5日もかかる速報性のなさも手伝って、意外と流されていないようだ。ベトコンを壊滅させ、北ベトナム正規軍の介入を必要にした「テト攻勢」での勝利は、どうして知られなかったのか。活字メディアは、テレビなどに判断基準をあたえる役割をになうことで生き残った、という指摘ともども、たいへん面白い。 今にいたる政府・軍当局の逆襲は、フォークランド紛争から始まったという。「プール取材」「エンベッド(軍埋めこみ型)」方式の一般化。テレビ・メディアは、カメラ一体型ビデオの普及によって「速報性」を獲得したため、「現場に行かなければならない」。その弱さを利用して、「取材を認めない」脅しをかけ、従軍取材への規制を認めさせ、新聞とテレビの2つに、メディアを分断することに成功したという。CNNは、米メディアゆえに湾岸戦争時には圧力を与えられたものの、「中東のBBC」アルジャジーラやアル・アラビア相手では効くはずもない。 アフガン戦争、イラク戦争をへて、圧倒的な影響力をもっていた英米メディアは、その力を減じつつあるという。今では中東メディアや、フランスの挑戦を受けているらしい。こうした報道統制とは、無縁だった日本でも、小泉政権下、統制が始まっていることに警鐘を鳴らして本書は終っています。 一つ一つの細部の掘りさげこそ、やや浅いものの、日露戦争から網羅的に論及することで、大きな流れが示されていてすばらしい。そうした分野に疎いものにとっては、たいへん悦ばしい書物です。政府批判をおこなえる環境というものが、どれくらい大切なことなのか。そもそも、自国民も外国の人々も、その環境がないメディアが発信する情報に対しては、信頼をおかないのです。複数の声が存在しないと、事態の悪化とともに、不信は加速度的に累積して政権の瓦解をまねいてしまう。ナチスや、湾岸戦争のブッシュ政権とは、そんな典型的事例であるらしい。 取材してきた記者を受け入れる。 定期的に速報性をもった発信をおこなう。 国益と称して、ウソやゴマかしをして、取材者や国民に不信感をもたれない。 親密なメディアとの関係を保つ … こんな簡単にみえることが、なぜ日本でできないのか。 評者ならずとも、理解に苦しむことでしょう。また他にもNHKは、「中国語放送」や「英語放送」を始めて、アジアのCNN的役割をになわせるべきではないのか。ついつい、国益の観点から、そう思わせてしまうほど、アルジャジーラなどの躍動は、すばらしい。 とはいえ、いささか冒頭の疑念がよぎってしまうのが、気がかりといえるかもしれません。人はメディア(媒体)を通してしか、現実を認知することができません。この構造からくる、「操作的公共性」への反省が、あまりにも筆者には欠けているのではないか。「操作性」そのものには、あえて踏みこみません。メディアである以上、「操作」の次元は不可避だからです。問題は「公共性」の側にある。はたして、政府に対立するだけで、公共の領域を確保するのに十分だろうか。「政府からの自由」のみならず、存在しない集合体、メディアを通してしか現れることのない、「国民」からの自由も、それと同じくらい大切なものではないのか。 いかなる、少数意見に対しても、広く開かれていること。 そうした弱い個人の声をたえず掬いあげていくこと。 それは、「国民」という発想とは、対極にあるものではないでしょうか。 メディアの「操作」が可能になる、そんなメディアの「自立性」の領域こそ、同時に「個人の自由」を可能にする、多義的な領域に他ならないことに対する自覚と責任。その領域に従事するものとしての、たゆまぬ反省と精進。筆者たちが、それをまず、所属新聞社において実践していくことこそ、今まさに求められているようにおもわれるのですが、いかがでしょう。 むろん、そんなことは、とっくに著者たちや所属新聞社が認識して実行に移しているはず、と評者は信じたい。というわけで、すこし甘めの評価をしてあります↓ 評価 ★★★☆ 価格: ¥1,470 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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