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カテゴリ:歴史
![]() 「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁かれた、日本軍B・C級戦犯。 この書は、保守的メディアにおける「BC級戦犯像」が、どれほど実像から隔たっているかをあきらかにしてくれる、待望の著作といえるでしょう。解毒剤としてお薦めしたい、一品です。 ● そもそも「BC級裁判」は、勝者の裁きとはいえない それは、枢軸国、とくにドイツに蹂躙された中小国の、残虐行為の責任者を裁判で処罰せよという声に由来するという。英米は当初「即決処刑」だった。被害者(女性、現地人)と、裁く側(男性、宗主国)はちがう。だからこそ、戦時性暴力を裁いた「女性国際戦犯法廷」は、意味をもつという ● でも「勝者の裁き」に見えてしまうのはなぜか 死亡率はシベリア抑留1割、ドイツ7%(捕虜処刑を含めるとはねあがる)。それに比べ、捕虜の3割を死なせた日本は、その虐待の異常さが戦時中から大問題にされていた。とくにアメリカ・豪州での裁判は、その捕虜待遇が問題にされた印象がのこるためだろう ● 下級兵士まで、裁かれてはいない 准士官・下士官など裁量権をもつものが中心。処刑された2等兵はいない。起訴もほとんどない。中心は、アジア系住民への犯罪、捕虜虐待はその次。集団虐殺と拷問などが裁かれ、前者は佐官~下士官、後者は憲兵、かつ直接取締をおこなう下士官が中心だったという ● 8カ国での裁判のため、判決内容・基準はきわめて多彩 国際軍事法廷と、その地域独自の裁判が「並列」で行なわれている。証拠収集による困難さと迅速裁判のため、裁判手続きは簡略化された。「人肉食」日本人に国土を戦場にされた豪州は、もっとも熱心で、かつ無罪判決比率も高い。フランス、そして海軍虐殺と武器引渡違反が特徴的なインドネシアの裁判は、独立運動で有名無実化した。フィリピンは住民虐殺がとわれた。おなじ中国は、将官比率が高い。規模がドイツの1/10にすぎないのは、被害地の住民が自ら裁判をおこなえず、国共内戦で中国側が対日宥和的であったためという。移動が多い部隊は責任者を割り出せず、憲兵隊は割り出しやすい。こうした差異は大きく、それが不公平感を高めたらしい ● 中共「撫順の奇跡」はやっぱり奇跡 ソ連からの引渡による中共の戦犯裁判は、人道的待遇の「認罪学習」によって、多くの戦犯の「改心」をひきだしたことでしられる。他の裁判では、報復的な暴行をうけた反発から、反省した戦犯はほとんどいないらしい。そんな中共支配地でも、敗戦直後、人民裁判によって千人をこえる日本人や大量の漢奸が処刑された。「改心」というプロセス自体、奇跡らしい ● 「日本政府」は、非日本人国籍の皇軍「戦犯」を処罰してケアもしない 独立後、裁判受諾によって、「日本政府」が戦犯の「処罰」を引き継ぐことになった。ところが、朝・台・樺太・南洋の「戦犯」は、戦後日本人ではないということで、日本人に与えられたケアさえしていないらしい。マジかよ… むろん、「戦犯裁判」の問題点にも容赦なくメスが入っています。 植民地民衆に対する残虐行為も、末端に残虐行為を強いた企画立案者も、裁かれなかった。残虐行為も、ほんの一端しか裁かれていない。田中信男第33師団長にみられる、部下への責任転嫁。強制連行で捕虜労働力を酷使した企業も、末端管理職と現場しか裁かれていない。戦争犯罪=「無差別爆撃」を裁いた、日本の軍律裁判担当者まで裁いた連合軍。重慶爆撃やB29の「無差別爆撃」が裁かれなかったことは、甚大な影響を現代にあたえているという。西側同盟国化、再軍備の条件として、戦犯釈放が持ち出される過程も面白い。どこまでも著者の「複眼的」な姿勢が光っています。 「告発された虐殺の場所が違っていたにせよ別のところでフィリピン人を 殺したことに変わりはない、なぜ日本人は罪を認めないのか、不満があ るのならばフィリピン人や戦犯裁判にではなく、命令を下した将軍へ向 けろ」「大量に殺すまえに調査したのか、裁判にかけたのか」 (フィリピン人) 被害者の直接的復讐を切断する、立証が必要な「裁判」という形式の出現。 「即決処刑」から「裁判」への進化。 「戦犯裁判」批判がどれだけ妥当なのか。この本は、あらためて考えさせてくれるでしょう。日本が勝てば、「戦犯裁判」(日本の軍律裁判に弁護人はない)をまともにやれたのか? 全体の2割にもおよぶ「無罪判決」をだせたのか?という指摘は、あまりにも大きい。そうした流れは、「ジュネーヴ条約」「戦争犯罪・人道犯罪への時効不適用条約」をへて、誤審の恐れから「死刑」を認めない段階にまできているという。「軍隊の否定」は、兵士の人権保障や人権・国際法教育、自衛隊の民主的コントロールをどうするか、などの議論を生まない。戦争責任も曖昧になりかねない。1990年代の慰安婦・被害者訴訟は、日本の「平和主義」への「警鐘」であるという著者の議論も、たいへん示唆に富む。 「戦犯裁判」をめぐる迷走は、「戦後と平和憲法」にどう向きあうかとパラレルになっている。復讐の連鎖を切断する「戦犯裁判」の理念。本来、「平和」を尊ぶなら、この理念をより発展させてゆくこと以外に、選択肢はありえまい。それを茶番というなら、いかに戦時犯罪とむきあうのか、新たなる対案がもとめられるだろう。出せないから、虐殺という事実を無理矢理否定して、被告側に感情移入することを通して、戦犯裁判の不当性という言説が紡ぎだされるのではないか。日本軍の捕虜「即決処刑」を容認しながら、「戦犯裁判」の不当性を鳴らすダブル・スタンダードは、やはり見ていてイタイタしい。ところがナショナリズムは、被害者と加害者という線にかえて、国境という線を引くことで、こんなあたりまえのことを隠蔽して、想像力がおよばない領域へとわれわれを連れさってしまう。 そうした中で、このような地道な「BC級戦犯裁判」の本が出されるのは、まことによろこばしい。この分野は、中国やフランス側史料が開示されていないなど、まだ明らかにされていない部分が多い。いっそうの研究が、これからも期待されているといえるでしょう。 評価 ★★★☆ 価格: ¥777 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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