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カテゴリ:歴史
![]() 素晴らしい。 一読後、感動が止まりません。 本日は、井沢元彦や自由主義史観など、トンデモ歴史観に洗脳された人々にむけて贈られた、格好の解毒剤をご紹介いたしましょう。 日本の中世 闘騒と自力救済が横行する中で、「平和」をうちたて「公」を創出する手続きとしてむすばれた、水平的原理の盟約=≪一揆≫。これを国家的な「公」秩序に回収しようとする、戦国大名勢力。 この中世社会における≪一揆的構造≫の出現と崩壊について、伊賀国名張郡東大寺領黒田荘の定点から描きあげた本書は、壮大な叙事詩の趣さえ感じさせます。これが面白くないはずがありません。このブログをお読みの方々のため、豊穣な内容を簡潔にまとめておきましょう。 ● 「私物化」の危機にさらされていた中世的荘園 東大寺領内の杣工は、公領にむけて、所領・住民の一体支配を妨げる、さかんな≪出作≫(他所領耕作)をおこなった。また、公領荘民は、雑役から逃れるため、または国衙に結集する武士に対抗するため、出作民と≪所従・因縁≫などによって結合し、寺門の下に身を寄せていった。それが、公領百姓の「寄人化」、公領の「寺領化」をもたらしたという。1174年、黒田荘の一円寺領化(私領の取得と公領の支配権引渡し)は完成をみた。 ● 僧の私生活の肥大化がおこした、寺院の荒廃 奈良時代以降、寺僧は三面僧坊から出て暮らすようになり、本尊は荒廃の一途を辿った。その荒廃した寺院の修造のため、僧の自覚的な結集が促され、東大寺の中世寺院への脱皮と荘園形成がはじまったという。もともと、僧は学問と修行にいそしむのみで、俗務にタッチできなかった。寺僧≪大衆≫は、荘園の寄人・荘民と結合して、政治的膨張をとげた。平安期にみられる、比叡山などの大衆運動≪嗷訴≫は、わが国最初の≪一揆≫であるという。その在地出作民・荘民のエネルギーをすいあげた大衆運動、≪嗷訴≫の発展は、平氏による南都の焼き討ち(1180年)をひきおこすほどであった。 ● 一揆の「集団性」「水平性」の原理は、 寺僧大衆の集会「満寺一揆」の形式が移植されたもの 一揆の正当性は、その主張の内容如何にはなく、全員一致、≪一味同心≫にあるらしい。≪一味同心≫に神の意思、正当性のあらわれをみる貴族たちは、≪嗷訴≫をおそれたという。中世寺院は、「衆議」「一味同心」によって、寺院経営や荘園管理などにも自治がおこなわれていた。寺の「衆議」と村の「衆議」がかさなる所に、共同体としての荘園、が出現したという。 ● 遺言は、救霊と生存中の財産の享受を結合させるためにむすばれる、 遺言者と神の代理人との保険契約であるという 平安から鎌倉にかけて頻発した、天変地異と飢餓・疫病。それは、「往生」を保証する浄土教の普及や燈油聖の出現をもたらして、死体「打ち捨て」から「埋葬」へと、死のあり方そのものを変容させてゆく。そうした変容にともない出現した「寄進」は、自分への供養のためにおこなう冥界での保険であり、病者と大仏の間をとりもつ「燈油聖」を介して、東大寺へと田土がながれこんだ。また浄土教の普及は、俗名から法名(阿弥陀仏号)へ、黒田荘の住民名の転換さえもたらしたという。それは、仏への結縁をもとめるパトスのあらわれとともに、呪詛をふせぐために実名を伏せていたらしい。 ● 悪党の出現と荘園制度の解体 寄進された「作手」は、荘園制度外におかれた、領主権とも身分関係とも関係ない、市場売買可能な「収益権」であった。作手(=地主支配)の拡大は、荘園内荘官の既得権を縮小させて≪悪党≫の出現をまねくとともに、≪名主≫(-下人関係)から「地小作関係」に再編させ、荘園の解体と≪郷(村落)≫をうみおとしてゆく。荘園外の庶民経済の発展は、流通・交通にたずさわる前期的資本家たちの活動によって、住民が荘園外に個別的にネットワークを形成することをおしすすめてゆく。荘園制度による地域秩序は融解して、「悪党化現象」を惹起したという。 ● ≪一揆≫による寺院・村落全体意思形成の高度化と、 自力救済の否定の先に出現した、武勇の徒「悪党」 鎌倉末~南北朝時代、惣領の一族統括権の衰退は危機感をうみ、分割相続から単独相続への転換、庶子・非一族縁者の「主従化」をおしすすめ、「国人領主」の出現をうむ。ところが畿内では、本所(=寺)権力と百姓にはさまれて封建権力に成長できず、個別・孤立した武装民段階に止まったという。惣寺の直接的支配は、地主としての性格を強めていた寺僧と在地との結びつきをつよめ、≪嗷訴≫を模倣した在地の「一揆」を生み、惣寺の経営をゆるがしていく。「全体」に収まらぬ武勇の徒は、幕府の法治主義と対立し、寺院・村落の「全体」からはみだした武装民と結合して「悪党」となって対峙した。彼らは、銭の力を背景にして、新興勢力を形成したという。 ● 戦乱の伊賀と中世の黄昏 南北朝の内戦は、全国を股にかけた土地から遊離した軍事勢力となって、遠隔地間の所領経営を不可能にさせ、所領を一つに集中させる「国人領主化」の道を切り開いた。15世紀名張郡黒田荘は、八幡宮所領に移るものの、寺僧私領の「≪地子米≫納入停止」=「都市-住民」の個別ネットワークの清算を介して、村落としての「地域自立化」の道をたどってゆく。1560年~81年までの間、伊賀の地侍たちは、「惣国一揆」=コミューン体制をつくりあげたものの、織田信長の伊賀侵攻によって、惣型(水平型)の民衆結合、中世的世界そのものが終焉する。 元来共同体の権利だった山川藪沢の狩魚猟民の活動。それが、「供御人」身分の成立とともに、貢納と引きかえの権利として、守護者に天皇が立ち現れ、周囲に営業権を主張してゆく。鮎の「押し鮨」のお話、「悪」の意味の変遷など、随所に庶民生活がうかがえるのも、すばらしい。 むろん、この書における、ある種理想化されたかのような、中世的自治の把握を批判することは、たやすい。ここで示された、中世的水平(惣的)結合と、近世的な垂直結合。その対称性は、どれほど、自明なものと言えるであろうか。コミューン同士は、またはコミューン主要成員同士は、水平的であるかもしれない。しかし、そこには、垂直的な関係が、わかちがたく附属しているであろう。そもそも、兵農分離によって、地侍を追放した近世村落こそ、≪惣≫的な水平的結合の完成形態とさえ、いえるのではないか。その疑念とあたかも符合するがごとく、中世における侍と農民の身分的差異の変遷・流動性については、あまり描かれていない。いささか物たりない。 とはいえ、 古代から近世までの、土地所有権の重層的な形成・展開過程 中世寺院・村落社会における自治の展開過程 この2つの展開過程が有機的にむすびつき、黒田荘を介して中世社会が照射されているのは、実に嬉しいではないか。おもえば、戦後日本中世史学、否、戦後歴史学の出発点は、東大寺領黒田荘において武士と荘民の成長過程をえがいた、石母田正『中世的世界の形成』(伊藤書店、1946年)であった。中世の山村に、ある種のコミューンを見出して、原基的な日本、日本の伝統と重ねあわせてきた、日本の中世史研究。その莫大な研究蓄積にもとづいて描かれた、中世の寺僧と民衆の世界の面白さ。 おそらく、この分野における、屈指の概説書ではないでしょうか。 図書館や本屋で確認・お求めになったうえで、 ぜひお読みいただきたい一冊になっています。 評価 ★★★★ 価格: ¥1,176 (税込) 人気ランキング順位 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 15, 2005 05:20:41 PM
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