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書評日記  パペッティア通信

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Sep 20, 2005
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某掲示板時代からの友だち、
ショータさんから以下のコメントを頂きました。


>まあ、要するに東京裁判で裁かれたなかった、アジアの植民地・
>占領地における婦女子の扱いについて、「国際法廷で裁くこと」
>自体は意味があると考えていますんで、

ちょうどこの件で春秋子さんの意見が伺いたい、っつかそう考えているなら突っ込みたいところがあるのでツッコミ入れますが、近代主義者がくだんの「女性国際戦犯法廷」を「国際法廷」などと呼んでいいのでしょうか?
一民間市民団体が誰にことわるでもなく勝手に設置した、被告人も弁護人も存在しない「集まり」を「国際法廷」と呼び、「意味がある」とするのは、真剣に「東京裁判で裁かれなかった(国際法的な)罪を、【国際法廷で】再検証するべき」と思っている人間たちには邪魔でしかないと思いますけども。

これには大前提の話として、「目的」のために「手段」は正当化されるのか? っちゅう話があるんですけどね。

まあハッキリいってウヨクサイドとしては、左がどんどんいかがわしさをアピールするってことは「得」になるんでしょうけども。

>右の東京裁判批判者は、「東京大空襲」なり「原爆」なりを
>「国際法廷」で裁いて、「ルーズベルト有罪」といやいいの
>に、なぜしないのか、理解に苦しむのですよね。

キチガイの所業を「キチガイじみている」とする時に、なんもわざわざ真似てみることはないでしょう。もちろんキチガイは右にも左にもいるわけではありますが。(September 16, 2005 23:26:53)


女性国際法廷のもつ批判には色々あるものの、
一番の多いのは、「国際法廷」と呼べるものなのか、というものでしょう。

「一民間市民団体が勝手に設置した」
「被告人も弁護人もいない」

という、「裁判の形式」からかけ離れている点について、
問題視されることが、とても多いようです。
ショータさんも、またこのような点において疑義を提示しておられます。

しかし、これは今の裁判について、もの凄くナイーブな見方を前提にしているように思えてなりません。

そもそも裁判は、「事実関係の最低限度を明らかにするために使われる報復【劇】」以上のものなのでしょうか?。そもそも裁判は、「法」と一定の「形式」に従って行われています。ただ、所詮それは、「正義の実践される場」という地点に立てこもり「神聖」というベールをまとうことによって、「秩序維持」をおこなう行為を<安定的に実施する>ために作られた、生々しい姿を隠蔽するだけのものにすぎないのではないでしょうか。

その観点からすれば、「東京裁判」「BC級裁判」「ニュルンベルク裁判」の意味が明らかになるでしょう。東京裁判は、占領軍による、「神聖」なる裁判という形式を使うことによっておこなわれた、直接的な「即決処刑」という報復形態を遮断するための儀式にすぎない。それは、直接的な報復が裁判という儀式を用いることで避けられる、という一点において、それ以前の直接的な報復を許す形態より、はるかに素晴らしい制度である、と。

ならば、従軍慰安婦についての女性国際戦犯法廷のもつ、別の意味が明らかになるのではないでしょうか。これは、裁判という形式を借りた政治的な報復にすぎない。その批判は、事態の一面を正確に射抜いています。だからその裁判を、「反日」団体による模擬裁判、と片づけることは、別段、なにも間違っていない。ただし、その報復は何のために行われるのかについて、理解できていない。それは、従軍慰安婦に対して、慰安婦制度を生みおとした日本軍と日本社会へ<報復>させ、満足させるためにある。

従軍慰安婦にとっては、「裁判」という形式を借用するが故に、直接的な報復が行えない。それ以上の行為に及ぶことは許されない。人殺しに死刑判決が降っても、被害者の親族は、その人物を殺せないことと同じです。裁判は報復の一形態であっても、決して報復そのものにはならない。本来、人を殺したら、死刑によって償えるでしょうか。そんなことはありえません。我々は、償えるはずのないものを、罪を認定する行為によって償える気がしているだけでしょう。そのための技術こそ、「法廷」「裁判」ではないか。

女性国際戦犯法廷は、「法廷」という形式を使い、神聖というベールをかぶろうとすることで、直接的な報復から致命的に外れてしまっている。「被告人」が死んでいて手を下せないという事実こそ、法廷の「茶番」ではなく、法廷のもつ「本質」を明らかにしている箇所として、とてつもなく重要なのではないか。「死すべき者」「恥ずべき者」であった従軍慰安婦は、この裁判によって「満足」を得て死んでゆく。我々は、裁判より前に進むことは、決してできない。つまり、従軍慰安婦とその支援(最初の変換では「私怨」と出てきたが、こちらの方が正しいように思える【笑】)団体は、この裁判を通して、自らを慰安婦に追いやった世界との<和解が達成される>のです。

つまり、従軍慰安婦は、
彼女らの死とともに、消えてなくなってゆくはずだった。
「天皇有罪」の宣告の際、法廷に湧きあがった歓喜の声とともに。



判決を下しても、何も意味はない。

だからこそ、

> キチガイの所業を「キチガイじみている」とする時に、なんもわざわざ真似てみることはないでしょう。もちろんキチガイは右にも左にもいるわけではありますが

という批判や、安倍晋三、中川昭一らの政治家、ならびに「天皇有罪」に煽られ、激怒した右翼たちは、実はおそろしく稚拙だったのではないでしょうか。「天皇有罪」とひきかえに、死とともに消えるはずだった彼女たち。むしろこの攻撃によって、永遠の命をおびて、裁判以後も生き延びさせる手助けをしてしまったように思えるからです。

なぜ「真似る」ことを進めるのかも、そのためです。
東京大空襲や原爆に対する不満を、終わらせるため。
裁判より先に進ませず、
被害者の死とともに消滅させ、
和解してゆくためです。

むろん、運動を進めたい方にはお勧めできない方法ではあるのですが。

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Last updated  Dec 3, 2005 08:37:13 PM
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