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書評日記  パペッティア通信

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Sep 26, 2005
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朝日新聞の日曜読書欄に、山野車輪『マンガ嫌韓流』(普遊舎)が採りあげられた。評者は、チンピラぶりで知られる、自称「カルト評論家」、唐沢俊一。あまりにも笑えるものなので、全文採録させていただきましょう。

★「素直さ」がはらむ問いかけ

 知識人と呼ばれる人々はたいていベストセラーがお嫌いである。たまに読んでも、まずほとんどが、
 「(いやいやながら)読んではみたがなにほどの内容もない。なんで大衆はこんなレベルの低いものを喜ぶのか」
 というようなお叱りがほとんどである。…しかしこれは、ベストセラーの本質をわかっていない言である。ベストセラーがベストセラーたり得ているのは、内容ではなく、社会の基層に蔓延した“感情”をすくあげていることが、大抵の場合その理由だからである。オイルショックによる社会不安が『ノストラダムスの大予言』をベストセラーにし、団塊の世代を中心とした中高年層への老いへのあせりが渡辺淳一の不倫小説をベストセラーにする。これらはその時点時点での日本の大多数の国民感情を映した鏡なのである。
 その意味で、最近話題の『マンガ嫌還流』を取り上げる際には、その内容の分析よりも、こういう本がベストセラーになるまでに、日本社会の中に嫌韓流という感情が広まっている、という事実を確認するための検証の視点が大事になる。すでに発売当初において、同じ嫌韓流の人びとたちからも、“ネットで流通している情報をまとめただけで新味がない”“構成、作画などマンガとして見れば決して出来はよくない”という批評がなされているのを今さらなぞっても仕方がない。
 作者をはじめ、この本を支持している若い読者層は自分の感情を素直に表明することを是として教育を受けてきた世代である。その彼らに、なぜ、嫌いなものを嫌いと言ってはいけないのと強制するのか、本の内容の否定の前に真摯に回答する義務が、われわれ大人世代、そして知識人諸氏にはもとめられるのではあるまいか。多くのベストセラーがそうであるように、この本も、この本が嫌う人々がまず、試されているのだと言っていいだろう。


「嫌韓流」批判への批判、いかがだろうか。
唐沢俊一らしい「逃げ」がふんだんに打たれていて、
読んでいて不愉快になる。

自己の没論理さを隠蔽するため使われる、国民感情という「全体の僭称」。そこに、すり寄ることで、「自己への批判」を「全体への批判」にすりかえ防御しようとする作法。これまでの左翼の常套手段を、そもそも左翼ではない唐沢俊一によって再演されると、その腐臭は無神経さすら帯びてきます。都合のいい「素直な国民」と「知識人」の2項対立をデッチあげながら、検証すらされない。そもそも唐沢俊一本人は、「素直な国民」と「知識人」のうち、どちらに分類されるんだ?。朝日新聞書評欄の評者であるお主が、「素直な国民」であるはずがないだろう。ヘソで茶釜が湧く。

なにより不愉快なのは、この箇所である。

なぜ、嫌いなものを嫌いと言ってはいけないのと強制するのか、本の内容の否定の前に真摯に回答する義務が、われわれ大人世代、そして知識人諸氏にはもとめられるのではあるまいか。

こんなのは、他でもない。
とっくに回答されていることではないのか。

なぜ、言ってはいけないか。「嫌いなものを嫌い」とは、自己肯定の前景化にすぎないからだ。それでは、たえまなき自己否定によって、弁証法的に駆動してきた、「歴史」の終わりがもたらされてしまう。それは人間が、環境に順応・充足して、「発展」の契機をもたぬ「動物化」してしまうことだ。人間の「人間」たる条件を消失…。

これは、ヘーゲル学者、アレクサンドル・コジェーヴの枠組を用いて、東浩紀が提起したものをちょっぴりかえたものです。東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)は、サブカルチャーをケーススタディにして、啓蒙的知性の失効と、「スーパーフラット化」「データベース化」を論じたものでした。現代社会を把握するための理論として、問題は多いものの、実に意欲的な著作だったといえるでしょう。

そもそも、「嫌いなものを嫌いといってはいけない」理由は、他にもいくらでも回答されているのではないでしょうか。たとえば、『嫌韓流』など「スノッブ」にすぎないから止めるべきだ、という回答も考えられる(下の東浩紀の批判はそういう方向性から批判している)。「スノッブ」とは、北田暁大が同じくコジェーヴから援用した、日本の「嗤うナショナリスト」たち特有の行動形態のことです。

ところが唐沢俊一は、あまつさえ『トンデモ本の世界S』(太田出版 2004年)で、『動物化するポストモダン』を「トンデモ本」に入れ、誹謗に近い批評を加えながら、東浩紀の肝心な部分をまったく理解できていないようです。読んだのではなかったのか、唐沢俊一。その批評内容も、一言でいえば、「東浩紀は、オタク的基礎知識を持たないでオタク文化を論じている」というお寒いもの。むろん、こんな批判は、「紋切り型」のイチャモンにすぎない。これまで、文学者、社会学者、経済学者など様々な人々が、その専門家の見地から、その専門領域「外」に発言をおこなうとき、こうした異議は、定型としてくりかえされてきたからだ。ただ、東浩紀のオタク概念は、オタクのもつ実感とそぐわないのは、どうしようもない。その意味で、その唐沢の批判に一定の有効性を認めることは、やぶさかではない。

とはいえ、その有効性も、さすがに唐沢が東浩紀の議論を大枠で理解しているという前提がクリアされていなければならないだろう。じゃないと、ただの「嫌がらせ」でしかあるまい。「トンデモ本」というレッテルを貼った本、『動物化するポストモダン』にとっくに書かれていた回答について、2005年にもなって、宛所も記さずに「真摯に回答せよ」と迫る唐沢俊一。それは、唐沢俊一が「素直な国民」でも「知識人」でもなく、声がデカイだけの、ただの「悪質なチンピラ評論家」であることの証拠ではないか。

そもそも、東浩紀は、朝日新聞社の発行する『論座』10月号において、「嫌韓流」について以下の見解を示している。

■「嫌韓流」の自己満足 (東 浩紀/国際大学GLOCOM教授)

『マンガ嫌韓流』を一読して印象に残ったのは、表面の熱気とは裏腹の、冷笑的な空気である。…公平を期すために言えば、そこには説得力のある議論もある。しかし、 それらの議論は、日韓関係の改善に繋がる積極的な提案に結びつくわけではない。 結局残るのは、「歴史問題にしても竹島にしても、韓国人はどうしてこう話がわからないんだ、まあバカだからしょうがねえか」という諦め、というより冷笑だけである(最後ではとってつけたように「日韓友好」が語られるが、いかにも嘘くさい)。

嫌韓のここに本質が現れている。かつて社会学者の北野暁大は、ネットを舞台とした擬似ナショナリズムの本質は、他人の価値観を「嗤」い、そのことで自らの優位性を保とうとするロマンティシズムにあると分析した。『マンガ嫌韓流』も同じである。

おそらく嫌韓の担い手の多くは、とりわけ嫌韓厨は、日本の将来を具体的に憂いているわけではない。彼らはむしろ、韓国人の愚かさを証明し、日本人の優位を確認したいだけなのである。『マンガ嫌韓流』がディベートの場面を数多く挿入しているのは、そのためだ。しかもその作法は、ネットでの「ツッコミ」に近い。だから彼らは、韓国人の歴史認識や外交姿勢を批判するだけではなく、その奇異な発言や行動を収集し、「あいつらはこんなにバカだ、困ったもんだ」と「ネタ」にする。…

それを駆動しているのは、嫌韓厨自身の自己満足である。その背後には、韓国への歪んだコンプレックスすら透けて見える。そもそも『マンガ嫌韓流』というタイトル自体、「韓流」ブームへのアンチとして差し出されているのだ。…

しかし、外交はディベートではない。ネタでもない。だれもが経験することだと思うが、 こちらが真剣に腹を立てているときに、相手に妙に冷静に対応されたりすると、ますます感情が高ぶるものである。それが人間というものであって、そんなときに「冷静になれない相手が悪い」と言っても意味がない。私たちは、この日本列島に国家を構えるかぎり、韓国と共存していかなければならない。韓国をいくら言い負かしても、その地理的条件は変わらない。隣人は怒っていて、私たちは引っ越せないのだ。嫌韓には、そのリアリズムが欠けている。 



初め読んだときは、ちょっと噴き出してしまった。

ああ、そうでしょうね。
韓国への違和感を「嫌韓流」によって回収されることで、擬似的に象徴秩序が再建=安定化されてしまい、<隣人が怒っている>=「現実界」へ接近できない危険性を指摘したいのでしょう。ただ、言いたいのは分かるけど、もろラカンでは?それ。『マンガ嫌韓流』は「対象a」ですか? なんでもかんでも、「対象a」に回収させるな!!と外にある「現実」を叫ぶのは、いささか芸がなさすぎやしませんか。デリダ学者なんだから仕方ないのかもしれませんが。いや、わたしも「対象a」にして回収してばっかりで、芸がないから、自己批判もかねてのことなんですが … こんな疑念を東浩紀氏の所論に感じていた私が、なんで今さら「嫌韓流批判」を擁護しなければならないのか、正直理解に苦しむ。と学会本や、唐沢兄弟の本を買っていたあの頃が、走馬燈のようだ…唐沢俊一の手口が、とみに許せなくなっているだけなのかもしれないが。

嫌いなこと。
違和感をおぼえること。

人は、そんな局面に遭遇したとき、安易な回答をもとめやすい。とくに、「他者が悪いのであってあなたが悪いのではないのですよ」など囁いてくれるものであるならば、なおさらである。そんなとき大切なのは、宙吊りにしておくこと。答えを決してもとめないこと。「あ、そうか!!」という回答を与えてくれる存在を拒絶すること。分かりやすさに逃げ込まないこと。考え抜くことを放棄したとき、シニフィアンへの全面的な依存として、全体主義的隷属の次元が切り開かれるのだから。

お断りしておきたいが、
『マンガ嫌韓流』は、そんな次元の本とは、まったく思っていない。
さすがにそんな存在ではない。

とはいえ、唐沢俊一ごときに何故、「嫌いなものを嫌いと言わない」理由なんぞを、聞かれなきゃならないんだろうか。さすがに、批判者をバカにするにもほどがあろう。唐沢俊一は、読んだ本になにが書いてあるかすら分からず「トンデモ本」にする人だ。所詮、「お前が知らないだけ!」にすぎまい。まあ、「どれほど低レベルな書評が大朝日にのるのか」全面的なネタでした、というのならば、許してやらないでもない。ただ肝心の本人は、えらくプライドが高いんだよね、これが。

近年とみにつまらない、「と学会」。
そのため、かなり厳しく書いた。
ご寛恕願いたい。

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追伸

東浩紀氏の本は、こちら↓



評価 ★★★☆
価格: ¥735 (税込)





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Last updated  Apr 4, 2006 09:01:20 PM
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