2005/12/03(土)20:38
★ 「靖国真理教徒」の懲りない面々
ちょっと取りあげるのが遅くなってしまいましたが、すみません。さる9月29日、大阪高裁で靖国神社参拝に違憲判決が下されたことで、例によって右翼たちが大騒ぎしています。以下、「バカの頭目」(?)ともいえる産経新聞の社説を引用してみましょう。
■【主張】靖国訴訟 ねじれ判決に拘束力なし
小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐる訴訟で、大阪高裁は原告の損害賠償請求を棄却しつつ、首相の靖国参拝を違憲とする判断を示した。典型的なねじれ判決である。
この違憲判断は、主文と無関係な傍論の中で示された。
大阪高裁は「参拝は内閣総理大臣の職務として行われた」と認定し、「国内外の強い批判にもかかわらず、実行し、継続した」「国は靖国神社との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持った」と判断した。そのうえで、首相の靖国参拝は「特定の宗教に対する助長、促進になる」とし、憲法の政教分離規定(二〇条三項)に違反するとした。
(略)
判決文は小泉首相の靖国参拝の主たる動機・目的を「政治的なもの」と決めつけているが、裁判官こそ、中国や韓国などからの批判を意識しており、政治的意図を疑わざるを得ない。
このように、問題の多い高裁判断ではあるが、それが傍論である限り、何の拘束力も持たない。
同じようなねじれ判決は、首相の靖国公式参拝を違憲とした仙台高裁(平成三年)、「参拝を継続すれば違憲」とした福岡高裁(平成四年)などの判決にも見られた。昨年四月、小泉首相の靖国参拝を違憲とした福岡地裁判決もそうだ。
いずれも、主文で原告の請求が退けられているため、被告の国側が控訴、上告して争えない構造になっており、下級審判決が確定している。裁判官は、上訴権を封じるようなねじれ判決を避けるべきである。
ブログやネットでの批判点は、以下の4つに集約されるようだ。
A 主文と傍論が矛盾した「ねじれ判決」だ
B 傍論には拘束されない
C 「違憲判決」は、反日マスコミのプロパガンダだ
D 政治的な判決だ
あいかわらず、なにが言いたいのかさっぱり分からない人たちだな、とおもう。
まず単純な疑問で恐縮だが、Aで「矛盾」していると目の色をかえて言うほどのものなら、なぜ傍論では拘束されないのか。目の色をかえていい、反発するのは、「拘束」されるような形式だからではないのか。逆にBのように拘束されないような代物ものなら、そもそも主文と傍論における記述の差異は、「矛盾」といった代物でもあるまい。次元が違うものを「矛盾」とは、とてもいえないからである。そもそも、「矛盾している!」「拘束されない!」と2つの声をあげるほど、矛盾した姿勢は、どこにも存在しないと思うんだけどな。
いったい、どっちなんだろうね。
Cなどと言う人間にいたっては、すこしお医者さんに見てもらって休んだ方がいいのではないか。判決文は、判決主文・判決理由・傍論で構成されるなら、「傍論は判決」であろう。そこで「違憲」と書いているなら、「違憲」「判決」以外の何ものでもあるまい。「違憲判断」?。法律用語や成語として、そんなものあるのかいな?。あいかわらず、何が言いたいのか、わけが分からない。
Dに至っては、「おまえがいうな!」である。
そもそも5月25日、6月6日に触れたように、中国の靖国神社参拝批判について、個人の思想信条の問題とはとらえずに、「内政干渉だ!」と政治問題化させたのは、右翼と産経新聞・読売新聞であった。国内において「靖国参拝政治化」を推し進め、政治イシューに仕立て上げた当の産経新聞の判決批判が、「裁判所は政治的判断するな」かいな?。笑わせるな。
読売と産経、そして右翼くらい、「思想信条の自由」を理解せず、リベラル・デモクラシーを掘り崩している存在は、いないのではないか。
こう書いてくると、誤解を招くかもしれないが、小生、なんで台湾人が小泉首相靖国参拝訴訟をおこすのか、まったく理解不能である。そもそも、精神的苦痛を被ったからといって賠償訴訟を起こすという考え方自体、人をなめているとしか思えない。てか、ふざけんな。小泉個人の「思想信条の自由」を、いったい何だと思ってるんだ。
「思想信条の自由」は、関係ない他人に苦痛を与えるものである。
そして、余程ひどいものではない限り、苦痛を受けても、たえるべきものだろう。てめえが苦痛を受けたからといって、それを根拠に、いきなり賠償訴訟をおこす資格など、どこにもない。てか、靖国神社参拝反対運動で苦痛をうけた右翼は、どうすりゃいいんだね?。判決主文において、原告敗訴、棄却されるのは、当然のことだ。
それと、小泉の靖国参拝が公的参拝なのか、私的参拝なのかは、まったく次元が違う問題ではないのか。よく考えてほしい。小泉の参拝が公的参拝ならば、台湾人は賠償金を受け取れるのか。バカも休み休みいえ。公的参拝だろうと、私的参拝だろうと、たんに精神的苦痛を受けたからといって、彼らには貰う資格などありはしない。それこそ、「思想信条の自由」の敵である。
主文と傍論は、まったく矛盾していないし、「ねじれ判決」でもない。この2つ、本来ならまったく関係のない問題なんだから、あたりまえである。
「控訴権」が封じられたと騒ぐのは、違憲可能性をもたらしかねない「公的参拝」にされたくない、政治的な思惑を秘めているからにすぎまい。これを無理やり整合させようとする異常さは、読売新聞社説がとりわけひどい。しかし、そもそも靖国神社参拝に対する中国の批判を、「個人の思想信条に対する容喙だ」としないで、「内政干渉」だとして反発したのは、読売・産経新聞社なのである。「内政干渉」であるなら、靖国神社参拝が「公的参拝」であるのは、あまりにも当たり前ではないか。今更、なにをあたふたしているのか。
ましてや、読売のように、
首相の靖国神社参拝をめぐっては賛否両論あるが、憲法違反か否かは、そうした政治的議論とは別次元の問題だ。
憲法の政教分離原則の合憲、違憲性について最高裁は77年の津地鎮祭判決で、国と宗教とのかかわり合いを全く許さないのではなく、国の行為の目的と効果にかんがみ「社会通念」に従って客観的に判断すべきだ、とした。
今回の判決の前日には、東京高裁で小泉首相の靖国参拝を「私的行為」とする判決が言い渡されたばかりである
などと「私的行為」を言い出すのは、失笑ものであろう。さすがに産経新聞は大したもんだ。小泉靖国神社参拝が「私的参拝」と匂わすようなことは言わなかった。公的参拝=合憲化を目指す、産経。「思想信条の自由」を犯しているとはいえ、一貫したその「犯す」姿勢に大しては、それなりに評価したい。
読売新聞は、判決を批判する前に、まず自社の「ねじれ社説」をなんとかすべきなのではないか。
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