|
テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
![]() 小泉純一郎首相、靖国神社参拝の是非で明け暮れた、昨日今日。 不断の「脱軍事化」へ向けた努力がないと、 国立追悼施設は「第2の靖国」になるだけだ! そう主張して、各地で物議を醸した、 名著『靖国問題』(ちくま新書)の著者が放った第2弾。 本日ご紹介するのは、国家・社会における「犠牲の論理」を極限まで思索して、国際的に見られる「戦没者顕彰施設」一般まで、批判しぬこうとする新刊です。ここまで来ると、なかなか清々しくて、実に面白い。 ポイントを簡単に要約しておきましょう。 ● 戦後日本の「平和と繁栄」は、靖国の戦死者「によって」「のお蔭で」はない 「お蔭」は、犠牲に「させた」ことを「正当化」「必要化」する論理である。聖書「イサク奉献」の物語以来、「尊い犠牲」論理とはまやかしであって、「犠牲は尊い」を言い換えているにすぎない。「台湾理蕃」「イラク派兵」「テロへの戦い」…常に「尊い犠牲」「感謝と敬意」という言葉で「聖別」することによって、戦死・戦争の凄惨な実態を記憶から抹殺させてきた。悲しみを喜びに、哀悼をプライドにかえる「感情の錬金術」の場所・儀式のための空間「靖国神社」は、「国に命をささげる」ことをもとめる存在である。国民は、「犠牲の試練」に耐えられるか、「国民精神」(by小泉)によって試されることになる。 ● 国家とは異なる、国民による哀悼・聖別の論理も存在する 長崎・浦上地区(被差別、隠れキリシタン集落)投下ゆえに、原爆を「天罰」呼ばわりした同時代人。それに抵抗して、「天皇聖断神話」を持ち出して、「神の摂理」「尊い犠牲」を唱えた、医者・文筆家のカトリック信者、永井隆。そのGHQの「言論統制」下に許された原爆解釈は、原爆投下を世界平和のために「やむを得ないこと」(by ヒロヒト)として、天皇の戦争責任、日本国家の責任、原爆投下したアメリカの責任追及の免罪につながっている。韓国・光州事件犠牲者顕彰施設に代表されるように、民主主義下でも犠牲を聖別する論理は、止むことはない。 ● フィヒテとルナン、2つの国民像にも「犠牲の感情」と聖別の論理が流れる 「国民」とは、「言語」か「日々の人民投票」か。「血統主義」VS「属地主義」とされる2人の対立も、どちらも「自己犠牲の精神」をベースにしていると喝破されます。フィヒテは、永遠なる「祖国と民族」へ向けられた、「自己犠牲の精神」としての「すべてを焼き尽くす高次の祖国愛」。ルナンは、たしかに、民族・言語・宗教・「共通の利害」による国民形成を斥け、「過去と現在からなる精神的原理と魂」を唱えてはいます。しかしその国民の定義とは、偉大かつ栄光の「過去」に付随する、犠牲の感情によって構成された「大いなる連帯心」だからです。ルナンの「人民投票」とは、国民創成のため犠牲になった人を哀悼して、自らも国民を守るため犠牲になる覚悟があることを宣言すること、であるらしい。また、犠牲の「記憶」とならんで、都合の悪いことを忘れて「忘却」することも「哀悼の共同体」を立ちあげるために必要であるといいます。日本に「悔悟の共同体」を再建しようとする加藤典洋『敗戦後論』(講談社)は、他国(アジア)の死者、大戦以前(侵略戦争)の死者の「忘却」であるゆえに批判されています。 ● 軍隊・常備軍は、それ自体が「犠牲の論理」によって成立している ● 権利の集団的防衛=「自衛戦争」こそ、個人的権利を不確定化させるパラドクスをもち、「犠牲の論理」が剥き出しになる ナポレオン戦争から始まった「市民宗教としての国民国家」による戦没者祭祀は、戦間期(1918-39)のドイツでその頂点に達し、戦争体験の<神話化と凡庸化>がすすむ。とはいえ、その源泉は、古代にあるらしい。中世キリスト教の「天上の祖国への愛」は、ギリシャ・ローマ時代に盛んだった戦没者祭祀・英霊顕彰を解体してしまうものの、キリスト教「神秘体」の文脈で「神聖な祖国」像を温存して、中世後半以降、「世俗的国家の宗教化」の形で復活させてしまう。殉国即殉教。教会殉教者の論理は、世俗の祖国のための死に転用されてゆく。 「権利をとるか生命をとるか」が問われる自衛戦争では、犠牲は不可避となり、「尊い犠牲」レトリックが容認されやすい。とはいえ戦う個々人は、その防衛の究極の目的であるはずの権利が、闘うことによって喪失してしまう。 殺す(犠牲にする)ために兵士を養うのか。 本書のこの問いかけはあまりにも重い。それだけではない。さまざまな知識も、鋭利な論理と平易な文体とともに展開されていてなかなか飽きさせない。東ヨーロッパは、国民国家としての伝統がないので、手っとり早く国家つくりを「言語と血統」に依存したため、あのような小国乱立になったという。「体制や法律に対する安らいだ市民的な愛」を拒絶した、フィヒテ。「歴史学の進歩」は危険であると唱えた、ルナン。この2名の思索は、敗戦国知識人にみられがちな、特有の思索でもあるらしい。戦争理由に関する「戦争の正義」と、戦争手段に関する「戦争における正義」の峻別をとなえるウォルツァー「正戦論」も、南京事件など戦争犯罪を考えるには、とてもいい題材ではないでしょうか。 とはいえ、前作よりも「一般化」した素材を扱っている分、「面白さ」「有用さ」も増しているものの、前作の過激さからみれば、物足りなささえ覚えてしまう。とくにデリダを援用している、最終章はひどい。「絶対的自己犠牲からは逃れられない」「あらゆる犠牲の廃棄は不可避であるがこの不可能なものの欲望なしに責任ある決定は生まれない」……何ですか、これ。後期ハイデガー以降のラカン、デリダ…現代思想研究者なら、誰だって言えるじゃないですか…!! どこがデリダなのよ。デリダで本当に靖国が論じられるの??靖国神社をエクリチュールとして扱いその多義性をみるの?? こうした、わくわくするような期待感で読みすすめ、それなりにふさわしい直前までの精緻な議論は、みごと最終章で粉砕される。靖国問題のときも思ったが、この人はいつも最後でダメダメになってしまう。 そもそも、靖国神社とは何か。「国家のために死ぬ」ことを人々に求めるための施設だ。よろしい。ならば靖国神社を参拝して「靖国の論理」を支持する人々は、「国家のために死ぬ」ような何かをしているのか。いや、口ではそういっている。ところが、参拝に訪れる靖国シンパの多くの若者は、自衛隊なんかに入ってはいない。とはいえ、高橋哲哉を批判する文芸評論家・宮崎哲哉のようなデブなんかに入られても、自衛隊は困るだろう。そう。靖国シンパは、国家のために他人が死んでくれることを望んでいる人たちなのではないか。自分が死にたくないくせに、非常時になれば、だれかが死んでくれることを望む人たちではないのか。おれは、「靖国の論理」に騙されないが、どこかで「騙されるバカ」が出現して、おれの代わりに死んでくれることを望んでいる存在なのではないか? 「愛国者とは、卑怯者の最後のよりどころ」というのは、このレベルでは、まことに正しい。なによりも、靖国神社の悲劇とは、「靖国の論理」を実践していない、卑劣な人間達に信奉されているところにあるのだから。 あらかじめお断りしておきたいが、 何も靖国支持派を批判したいために言っているのではない。 靖国神社は、「靖国の論理」が「つねに失敗する」からこそ存在する。 「国家のために死ぬ論理」は、失敗が宿命づけられている。 英霊ではなく、「靖国の論理」の墓標こそ、靖国神社ではないのか。 そうみてくると、高橋哲哉が提起すべきだったのは、靖国神社の廃棄なんかではありえまい。靖国シンパたちに、「靖国の論理」を、正確に、忠実に、過激に実践に移させることではなかったか。シニカルに振舞うことで、なにか偉くなっていると勘違いしている人たちにむけて、靖国を支持するなら実践しろ、と求めることにあったのではなかったか。ネタではなく、マジで実践せよとせまることにあったのではなかったか。 ネタというシニカルな逃げ道を塞ぎ、マジで靖国神社の論理に従うことを靖国シンパにもとめること。自分たちは騙されないが、騙され実践するバカがどこかに出現することを待ち望み、哀悼をくれてやる…そのような態度を取らせないこと。これくらい、靖国神社と「靖国参拝支持派」へのラジカルな批判はあるまい。 「靖国神社」を支持する? なら、君は国家のために死んでくれるんだね。 なぜデブなんだい。デブは兵隊さんとしては役立たずで死ねないぞ… 国家のために死ぬことを他人に求めながら、 自分はなぜ体調管理すらできないんだい。 … 徹底的な覚悟を相手にもとめること。それは無論、容認されてしかるべきだろう。なぜなら、「靖国の論理」を国民全員が実践に移せた、まさにそのとき、この世から「靖国神社」なんて存在は消滅してしまうのだから。そしてこれくらい、「不可能なものへの欲望」にふさわしい、回答と処方箋はないのではあるまいか。 とはいえ、最終章までは素晴らしい。 みなさんに一読をお勧めできる一品ではある。 評価 ★★★ 価格: ¥966 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[哲学・思想・文学・科学] カテゴリの最新記事
|