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テーマ:経済分野の書籍のレビュー(50)
カテゴリ:経済
![]() 長崎は、組織が都市の姿をしているにすぎない!!! 本日は、近世日本唯一の外国への窓口であった長崎について、「株式会社」組織として描いてみようとする、意欲的な作品をご紹介いたしましょう。ここ30年、江戸期の「鎖国」についても研究がすすんで、これまでのイメージは様がわりしています。秋の夜長。そんな息吹を確認するためにも、ぜひご一読してみてはいかがでしょうか。 内容は以下の通り。 ● 貿易利益に預りたい領主、キリシタン迫害からアジールがほしいイエズス会 両者の利害が一致して、イエズス会に寄進された都市、長崎 布教を認めない平戸の領主、松浦氏。ポルトガル船を来航させるためには、宣教師を優遇してキリスト教布教を認めることが必要だった。松浦氏に見切りをつけたポルトガルと、大村氏の利害が一致して、1571年、長崎は寒村から生まれかわったという。1587年、秀吉のバテレン追放令で、「長崎26聖人の殉教」などを生むものの、依然として宣教師は残存。ただキリスト教は、領主改宗によって進められたため、領主の転向によって棄教が相次いだらしい。17世紀初頭の30年間、総合商社並みの組織力を必要とする、朱印船貿易が栄えた。オランダ・イギリスは海賊でしかなく、またマカオは日本への生糸輸出に依存しているため、日本とポルトガルは関係が続いたという。 ● 「代官と商人」が一体となった、幕府の支店都市「国策会社長崎」の誕生 1580年、イエズス会寄進以後、秀吉直轄地、徳川期天領と変遷した長崎は、教会の林立する西洋風の町であったという。1620年代以降、強烈なキリシタン弾圧によって、ポルトガル・イエズス会の長崎は終焉。1636年、ポルトガル人の隔離のため作られた出島は、ポルトガル人の追放によって、オランダ人商館の平戸からの移転で埋め、以後200年、オランダ人曰く「国立の監獄」とよばれる、「暇との戦い」が続くことになるという。ただ、寛文長崎大火(1663年)で、既存の街並みは壊滅。長崎奉行は、「長崎王」とよばれるものの在任が短く、奉行所には数十名の役人しかいなかった。ほとんど地役人に市政を委託していたらしい。ただ、帯刀を認められても、武士身分にはなれなかった。 ● 貿易と市政の一元化で、官営貿易・総役人化を生んだ 1698年、「長崎会所」の成立 「銀と生糸」の交換であった日中貿易。長崎では、唐人貿易が主役で、6万人の人口中、唐人は1万人を占めたという。当初、その取引は、船宿が中核で、委託販売と手数料を稼いでいた。生糸取引は1604年以降、「糸割符」仲間の独占下(生糸以外は、相対売買)におかれていたものの、1655年廃止。その後は、「貨物仕法」とよばれた、輸入量を決めて価格を指値式にして独占購入、購入後は国内商人たちの入札にかける方法を採用した。商人の評判も上々だったものの、これも廃止。1685年からは、オランダに銀3000貫、唐人には銀6000貫を上限に取引を認める、『御定高仕法』が採用された。この後、『長崎会所』が設立される。ただ唐船は、私人貿易で南洋各地から来航する上、当初上限に達すれば「打ち切る」方法だったため、来航船117隻中、積戻船が77隻を占めたことがあったらしい。そこで、1715年「正徳新例」を出して、来船数を30隻に制限するとともに、舶載品の「全品買い切り」制にしたという。また長崎に来た唐人の子孫「唐通事」が、唐船貿易を仕切って許可証の発給、唐人の取り締まりにあたったことも面白い。 ● 明清交替期、江南都市の荒廃で、唐人たちの憧れだった長崎丸山遊郭 ● お上から竈銀を支給・厚遇された「日雇い」 長崎観光ブームがおきていた、16世紀中国。オランダ人が粗暴とされる一方で、唐人は教養あるものも多く、長崎の日本人は、詩・南画・書道などさまざまな交流がおこなわれていたという。船宿制から宿町付町制になって、町ぐるみ「輪番」で唐人接待する、官営貿易。そこでは、家主が事務、借家人が荷役をにない、幕府も長崎をショーウィンドウとするため、さかんにテコ入れをおこなっていたらしい。そんな長崎人は、同じ日本人から「外国人文化を受容して、生活に取り入れ」「奢侈的享楽的な浪費家で」「封建的因習に囚われない」「狡猾な」イメージを抱かれていたらしい。グルメの一方で、米などの食料を移入に頼るため貧しい食生活の一面もあったことは驚かされる。 なによりも、江戸時代の豆知識が喜ばしい。出島付近は、意外にも浅く、オランダ船は横付け不能で港に向いていないという。「江戸の仇は長崎が討つが元の諺だった」「近代以前の日本人にとっては、外国人は悪臭をはなつものだった」というのは、多くの人には初耳ではないでしょうか。国内産銀は年7000貫前後。最高その5倍もの銀の流出に悩んで、銅代物換え、俵物代物換えで5000貫、2000貫追加して、貿易需要に対応する様は、なかなか面白い。明治以降、長崎唐通事は、中国語・中国文学の先生として全国に散っていったという。オランダ人の商品を「こぼれ物」にしてくすねる日雇いの生態など、本書では生活感が満ちあふれていて嬉しい。 ただ、どうだろう。この本は、「株式会社」長崎を描くことについてだけは、完全に失敗しているのではないだろうか。 株式会社の中核であるはずの『長崎会所』。それが、どのように資産を運用して収益をあげていたのか。とくに、長崎から国内へ向けて、すなわち川下の方についてが、サッパリ分からないのだ。そもそも、商品の仕入れと来航は、完全に唐船・オランダ東インド会社船任せ。国内市場向販売は、これまた三都、とくに大阪の問屋任せであろうことは、容易に想像がつくというもの。『長崎会所』は、その半官半民的な行政機関的性格からいっても、唐人貿易における「全品買い取り」制度から見ても、川下の問屋に商品を流す際、掛売するなんて考えにくい。長崎という都市をいくら整備しているとはいっても、所詮、長崎に居を構えて、右から左に「売れることが約束された」生糸という商品を流すだけの組織。販路開拓に汗水流すこともない組織の、いったいどこが株式会社なのか。『「国営企業」長崎出島』の方がピンと来るのではないか。 「株式会社」長崎のマンパワーは、開港後、日本の各地に引き継がれていったとする本書。たしかに「親方日の丸」は、「国鉄」へ、「役所」へと引き継がれましたかね、と厭味の一つくらい言いたくなってしまう。売らんがための煽りの悪どさは、ほどほどにしておくべきではないか。また細かいことをいうと、唐人と称した理由は、「清国人」と称するのが嫌だった、と書いてあるものの、これは「清人」じゃないといけない。また、泉州・シ章(サンズイ。「しょう」と読む)州出身者のグループなんだから、残された史料に「泉章幇」と書いてあっても、「泉シ章幇」とした方が、読者の誤解を招かないだろう。 最終章。日本の外延におかれ、衰退を続ける、長崎県や九州の離島たち。その衰退を心から憂える筆者は、「出島」を長崎県全部に拡大すること、境界性と希少性が光をはなった、かつての環東シナ海のクロスカルチュラルな世界を取り戻すことで再建を訴える。長崎が、香港に、シンガポールになれないはずがない!!。 今のグローバリズムの流れは、かつての長崎のクロスカルチュラルと、いささか二重写しにみえてしまう。中央に見捨てられた辺境は、どのような処方箋があるのか。「沸騰する」こともかなわず、緩慢に死にむかう「辺境」の茨のみち。この本の処方箋は、その背後の物語もあって、なかなか面白いのではなかろうか。 ぜひ、捜しもとめいただいて、読んでもらいたい。 そんな一冊になっています。 評価 ★★★ 価格: ¥1,680 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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