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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:社会
なかなか凄い新書が出版されています。 1991年、旧ユーゴ内戦以降、戦争犯罪を侵した個人を処断するため、1993年に設置されたICTY(旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所)。かのイラクで殉職した外交官奥克彦の勧めで、東京高等検察庁から転進して、ICTY裁判官選挙で当選。2001年末から着任した、異色の経歴の持ち主。たんなる、国際刑事裁判の動向だけには留まってはいません。複雑極まるユーゴ現代史と国際関係史を丁寧に追跡した、すばらしい著作になっているのです。 要約はなかなか難しいのですが、5項目にまとめることができるでしょう。 ● ニュルンベルク条例に沿って成立している国際裁判所、ICTY 裁かれる戦争犯罪は、以下の4つ。 A 1929年ならびに49年のジュネーヴ条約(国際人道法)違反。 B 戦争法規・慣習法違反(1907年、ハーグ陸戦法規) C 人道に反する罪 D ジェノサイドの罪 ニュルンベルク裁判は、ハーグ陸戦法規に条約遵守のため国内法を整備せよ!と書いてる以上、1939年には慣習法として成立している!!として(異議もあったが)、遂行されたものだったらしい。人道の罪は、無国籍者、または犯人と同じ国籍の場合、保護の埒外のおかれてしまうため、設置されたという。また、ユーゴ戦犯裁判は、ボスニア秘密警察などの協力もあって、10年前の史料が比較的残されていて進めやすかったらしい。 ● ボスニアでは、都市知識人層を形成していたムスリム勢力 第二次大戦期、親ナチ傀儡国家クロアチアの「ウスターシャ」VSセルビア人勢力「チェトニック」VSチトー率いる「パルチザン」の3つ巴の抗争は、民族対立を越えて独立をめざすチトーの勝利におわった。本来、ユーゴの各民族は、すべてセルヴォ・クロアチア語に属していて、諸般の歴史的経緯によって産み落とされたものにすぎない。労働者自主管理による「分権化した社会主義」をかかげたチトー政権は、ムスリムにも独立した「民族」の地位を与えた。1980年代まで、ムスリムは差別された存在で、他の民族で申請していたらしい。第二次大戦における民族間の残虐行為が、ようやく忘れ去られようとしていたとき、2度の石油ショックが到来。各共和国は、完全な「経済自主権」をもつため、内紛を重ねて対応もできない。1990年、複数政党制公認によって、「ユーゴ共産主義者同盟」独裁崩壊とともに、各地で民族政党が台頭して、バルカンの火薬庫の導火線に火をつけることになる。 ● 紛争の根源は、セルビア人保護を先送りにしたクロアチア独立承認と停戦 ● ボスニア分割案を葬り去った、アメリカとムスリム勢力 1990年、民族政党率いるトゥジマンが、クロアチア大統領に就任。そのやり口に、クロアチア東部にすむセルビア人が激怒。1991年、自治権をもとめて、セルビア人とクロアチア政府の衝突が発生。ユーゴ人民軍のクロアチア侵攻をうけて、世にいう「クロアチア紛争」が勃発する。そこで行われた拙速なクロアチア停戦は、セルビア人の権利や保護について、棚上げにしたものだった。さらに致命的だったのは、ドイツのクロアチア独立承認だったらしい。クロアチアが連邦に止まらない限り、ボスニアが連邦に止まる意味など乏しい。ただちに、クロアチアから流れこんだセルビア系難民の群れを通して、ボスニアのセルビア人全体に「2級市民になるのではないか??」という不安が波及してしまう。1991年、ボスニアの主権を宣言するムスリム指導者イゼトヴェゴビッチに反発して、セルビア人勢力の指導者カラジッチは、第二議会を作って「連邦に止まる」ことを宣言する。 その際、アメリカはボスニア独立でユーゴ軍の介入を防げると考える錯誤を犯してしまったという。1992年3月、ボスニア独立を問う国民投票は、アメリカの支援と31%のセルビア人住民の完全ボイコットの下でおこなわれ、99.7%の賛成で承認されてしまった。セルビア人は、各地に非常事態政権をつくって、1992年9月には「スルプスカ共和国」結成、ムスリムの粛清をはじめる。 ● 徴兵拒否を利用しての、合法的な社会的権利の剥奪が横行した、ボスニア ● 非常事態下、横行するムスリム知識人狩りとセルビア人幹部の蓄財行動 セルビア側は、非セルビア系住民を襲わせるため、無法者をを野にはなつとともに、非セルビア系住民を合法的に追放してゆく。ユーゴ人民軍ボスニア部隊は、セルビア軍に移行して、民兵集団も支配下におさめ、非セルビア系住民の刀狩・職場追放・財産剥奪をおこない、圧倒的な優位を築いた。セルビア軍からボスニア・ヘルツェゴビナを守るには、クリントン政権は「空爆&武器禁輸」しかないと考えていた。ところが、フランスとイギリスはセルビア、ドイツはクロアチアを支援していたので、足並みが乱れておこなえない。1995年7月、イゼトヴェゴビッチは、セルビア勢力の突きつけた、スレブレニツァからのムスリム住民立ち退きに関する「最後通牒」を拒否。世にいう、セルビア勢力による「スレブニツァの虐殺」が発生する。1995年、デイトン合意でボスニア紛争は終結をみるものの、その影でクロアチア軍の反撃によって、クロアチアからのセルビア人追放が、大々的におこなわれていたという。 ● 2001年、転機となった新ユーゴ連邦・元大統領ミロシェビッチの移送・起訴 ● 依然残されたままの、コソヴォとマケドニアの「アルバニア」人問題 デイトン合意を導いた立役者の一人、新ユーゴ連邦大統領ミロシェビッチ。かれは、1986年にセルビア指導者となって以来、過激なセルビア民族主義を掲げてきた、本来なら戦犯の筆頭だったものの、形式的には西側と同一歩調をとっていたため、ゴルバチョフ視されていてICTYに起訴されることはなかった。ところが、デイトン合意の実行を阻害した上、コソヴォの処遇をめぐって、西側と対立して起訴されることになったという。ただ、引き渡したディンデッチ首相は、セルビア民主化の象徴とされたものの、今現在では、西側への反発と「汚職と経済悪化」による民主化への失望のため、セルビア民族主義政党には根強い支持があるらしい。また、今ボスニアでは「ムスリムとクロアチア人の連邦」は「スルプスカ共和国」に対して軍事的優位にあるという。 いかがでしょうか。この本は、簡略にユーゴ現代史とクロアチア・ボスニア紛争がまとめられていて、たいへん参考になります。「ICTYは、NATO空爆を問題にしない!!」と批判する声に、激しく反発する筆者。第一次大戦直後は、「法の支配」を打ち立てられないとして、ヒトラーにせせら笑われた国際裁判所。それが、ニュルンベルク・東京両裁判から、ICTY(2010年まで)を経て、今ではICC(国際刑事裁判所)という「恒久的な組織」に発展へと発展しているという。開かれた未来への希望を語りながら、「国際刑事裁判」そのものを擁護せんとする姿勢は、非の打ち所なくすばらしい。また本書では、「非道なセルビア人」「哀れなムスリム」というイメージを批判して、一部の政治家や軍人が権力拡大や蓄財のため、一般市民の恐怖をあおり民族浄化に利用したことが繰り返し強調されています。テレビなどの映像を利用したプロパガンダで、我々の認識がいかに歪められていたか。反省させられるものがあるのではないでしょうか。 ただ、ちょっと残念だったのは、記述が錯綜して読みづらかったこと。項目ごとよりも、時間順で「クロアチア・ボスニア」を並列させて記述してくれた方が、理解しやすかったのではないか。また、コソヴォ紛争は、あまりにも記述が簡単で、拍子抜けしてしまった。これでは、いくらボスニアの延長とはいえ、コソヴォでの残虐行為がどのようなものだったのか分らない。きちんと書いて欲しかったとおもう。 とはいえ、そんなことは些細な欠点にすぎません。セルビア人非常事態政権の議長をつとめたブルダニンは、直接、オマルスカ強制収容所などでの殺害行為に手を下していたわけではないのに、民族浄化の罪で懲役33年もの判決を下されたという。やがて「東京裁判」「従軍慰安婦裁判」などでさえ、回顧と思い出の一コマとして語られるような、そんな国際刑事裁判所が出現するのかもしれない… ささやかながらも、感じさせてくれる、未来への「予感」と「希望」。今、一番足りないものは、未来への「希望」であるだけに、なかなか癒される作品にもなっているのです。 ぜひ、ご一読ください。 評価 ★★★★ 価格: ¥735 (税込) ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです
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Last updated
Dec 8, 2005 09:34:15 PM
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