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書評日記  パペッティア通信

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Mar 18, 2006
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カテゴリ:社会


良書にめぐりあうのは、大いなる喜びのひとつ。
日本特有とされる「喧嘩両成敗」法が、どのように形成されてきたのか。本日、ご紹介するのは、その淵源をたどってゆく著作です。古代的ロマンこそかけているものの、中世的世界は、今とまったく異なる興味深い論理で運営される社会であったことが丁寧に解説されているのです。これが、実に、面白い。

内容はこんな感じです。

● 強烈な名誉意識・自負心をもち、笑われるとキレる中世人
● 武家法・公家法・本所法以外にも、村落などでは別次元で通行していた
   「傍例」「先例」といった慣行の強固さ


街中殺気に満ちあふれていた中世。大名当主も被官も、そんな荒ぶる時代の住人。復讐や敵討ちは、自力救済が基調の社会では、たとえ制定法では違法であっても放任されていた。一般的な日本人とは、忿怒の情を胸中深く隠蔽し、勝利の日が来るのを待ち望む人々がだったという。この当時の犯罪捜査は、「当事者主義」であって、当事者からの訴えがなければ、公権力は犯罪者の捕縛・捜査をおこなっていなかったらしい。では、腕力も裁判を闘いぬくコネもないものはどうすれば良いか。「遺言」して「自害」すれば、公権力によって「復讐の代執行」がおこなわれたというから驚きではないか。「指腹」―――切腹した刀を送り付けられたものは、その刀で自害しなければならない―――習俗は江戸時代まで続き、かの忠臣蔵も「指腹」をもとめた物語であったという。それは、「抗議の自殺」「死で潔白を訴える」習俗として、欧米ではまったく逆で罪を認めてしまいかねない「自殺」が、今に至るまで日本社会では続いている遠因になっているらしい。

● 個人より集団アイデンティティーが強い中世
● 公認されていた「落ち武者狩り」「掠奪刑」「流罪人殺害」


イエは、公権力の及ばない「駆け込み寺」。そこに、「たのむ!」といわれてしまうと、「主人-下人」関係が生じてしまい、その人を守る義務が生じる、そんな社会だったという。人は、イエなどの親族関係以外にも、様々な「主従関係」「同輩関係」を取りむすんでいた。しばしば京では、喧嘩が市街戦にまで発展したらしい。また、同じ「村」「町」に住んでいるというだけで「運命共同体」とみなされ、復讐の対象にされることも多かった。失脚者や流罪人は、「法」の埒外におかれているとされ、私人による掠奪・落ち武者狩り・殺害の対象になったし、公権力はそのような慣行「私刑」の世界を利用することで「公刑」を実現していたという。

● 喧嘩両成敗的措置を生むことになった、中世「衡平主義」「相殺主義」
● 中人制・解死(下死)人制以外に、室町時代の様々な刑罰方法の
   行き詰まりから出現した、喧嘩両成敗


中世社会では、多様な法慣習が存在していた。当然、「当知行(用益事実)主義」と「文書主義」の様に、相互に矛盾しあう道理が多く、為政者は頭をかかえる程であった。中世特有の「目には目を」の同害報復の原理は、騒動を拡大させる一方で自制を促す原理ともなる。それは、双方を同罪・引き分けにすることへの拘りとなり、足して二で割る方法(「折中の法」)を採らせることになった。喧嘩両成敗は、戦国大名による問答無用の裁断ではない。それは、中世社会における加害・被害の損害を「同等」にする考え方から、誕生したものらしい。2者の争いを仲裁する中人制や、加害者が被害者に加害者の同一集団に属す「身代わり」を差し出し「見た」後に解放する解死人制など、復讐をもとめる人々をなだめるため、さまざまな慣行がおこなわれていた。時の政権・室町幕府は、理非を問わず、被害者が何人いても加害者「本人」一人だけに「栄誉ある切腹」をさせる「本人切腹制」を志向していたという。それは鎌倉時代の「理非」を徹底的に極める裁判原則や、当事者の復讐心に配慮して「本人」を特定する解死人制、被害者の責任を問わない点では「喧嘩両成敗」とも違っていた。ところが、「本人」の逃亡・特定困難、是非判断の困難などによって、15世紀後半以降、「喧嘩両成敗」の大波に、日本列島は飲み込まれてしまう。中人にみられる第三者調停を足がかりに、戦国大名は裁判権を確立してゆく。

● 喧嘩両成敗は戦国大名の弱い権力の証
● 今も過失相殺・被害者への偏見など方々でみられる、中世的精神の残存


そもそも、喧嘩両成敗では裁判をする意味がなくなってしまう。当然、喧嘩両成敗を規定していない戦国大名の分国法は、数多い。中世的自力救済から、裁判へ。その流れの中で、喧嘩に走りがちな庶民を、「喧嘩に耐えて訴えでれば、一方のみ成敗する」のように大名裁判へと誘導するための過渡期的な措置、それが両成敗原則であったという。両成敗は、逸脱や恣意乱用を招きかねず、紛争当事者の衡平感覚に配慮しながら、緊急に秩序を恢復するための措置にすぎない。戦国大名・織豊政権が取りこんだ野卑な法慣習は、江戸期以降、文明化されその役目を終え、建前上、適用されなくなる。庶民に流れる「衡平」への願いは、赤穂浪士討ち入り事件や、「過失相殺」という制度―――世界的に見れば被害者側に過失があると損害賠償を受けられないのが一般的―――や、社会保険料・厚生年金の折半制度、「被害者の落ち度」がウンヌンされる現代社会など、さまざまに形を変えて現れているという。 「柔和で穏やかな日本人」という自己イメージは、凶暴性を内面に沈潜させる日本人の執念深さを表しているのだとしたら…本書はそのような警鐘を鳴らして締めくくられている。

他にも、日本中世史の豆知識がすばらしい。中世では「盲人・山伏」は、祝詛する人びととして恐れられていたものの、江戸時代以降、反発と信仰の変化から、狂言などでは嘲笑の対象になったらしい。また、処刑すると憚られる南朝関係者や足利氏家中の者には、流罪人にすることで、殺害をおこなったという。姦通では、姦夫・姦婦とも殺すべしという判例は、室町時代から始まって、明治時代まで続いたというから、その息の長さには驚く他はない。室町時代まで、自害の方法として庶民にまで親しまれた(?)切腹が、15世紀以降、「自害を命ずる」刑罰へと変化して、やがて江戸時代、武士の特権へと変化してゆくという指摘には、たいへん感心させられてしまう。

中世的世界は、日本人にあまり人気がない。しかし、たしかに日本社会のプロトタイプが形づくられた時期であることがよくわかります。現代にも見られ、世界的に特異とされる「喧嘩両成敗」の丁寧な追跡は、スリリングで実に面白い。ただ、どうでしょう。「喧嘩両成敗」が結局、緊急措置にしかすぎず、とうとう法例としては定着しなかった以上、今もしばしばみられる喧嘩両成敗もまた、所詮、緊急措置としてしか現れてこないものではないのか。小泉純一郎の「田中まき子VS鈴木宗男」の対決然り。欧米との法慣習の違いなど、いかに「潜りこんでいるか」が丁寧にも指摘されているものの、さて、欧米や他の社会の場合、理非を明らかにできず、緊急措置が必要な場合、どのような原理で裁断されてきたのか。いささか疑問が残ってしまう。ほとんど、瑕疵にすぎないことは確かだけれど。

とりあえず、一読をお薦めしたい一冊であることは、間違いありません。
ぜひ、お買い求めいただきたい。


評価 ★★★★
価格: ¥1,575 (税込)


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Last updated  May 16, 2006 03:08:05 PM
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