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書評日記  パペッティア通信

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Apr 16, 2006
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カテゴリ:スポーツ・ゲーム


(承前)

では、当時の3大新聞社の棋戦はどのようなものだったのでしょうか。

読売新聞は、昭和棋界の覇者、呉清源による「打ち込み十番碁」。
囲碁は先番が絶対的に有利。そこで、先番後番を交互に10番打ち、対戦成績が4勝以上差がつけば、「手合い直し」(ハンデをつける)するという、囲碁界の伝統的な勝負の仕方でした。今ではまったく行われていない方法ですので、初耳の方も多いかも知れません。ただ、この十番碁を舞台に大活躍したのが、福建省出身で1928年に来日した、神童として名高い「碁聖」とよばれた呉清源(存命中)。昭和20年代、読売新聞紙上で呉清源は、日本棋院所属のすべての有名棋士を「定先」以下(呉が9段=名人とすれば、7段以下の実力しかないことになる)に打ち込むという、神話的偉業をなしとげてしまう。

毎日新聞は、ご存じ「最古のタイトル戦」本因坊戦。
先手有利を解消するために、「コミ」という形でハンデをつける(現在は先手黒番は6目半)。現代のタイトル戦は、すべて毎日新聞の本因坊戦に由来しているのです。本因坊家より日本棋院に名称を譲渡され、昭和14年から今に続く本因坊戦。段位に関係なく戦う棋戦は、この本因坊戦が端緒でした。当初棋士の間では反発があったが、今ではすっかり定着しています。

朝日新聞は、本因坊戦以前、唯一の公式棋戦であった、囲碁の昇段戦「大手合」を主催していました。なにより昇段戦なので、最高位である9段(=昔なら即名人)は、当然紙面には登場しません。

ここから一目瞭然で分かるのは、最も割のいい棋戦を主催しているのは読売新聞であり、最も割のあわない棋戦を主催していたのは、朝日新聞であったことでしょう。読売新聞は、読売新聞専属棋士、呉清源ただ一人抱えるだけで、日本囲碁界全体を牛耳ることができたのです。囲碁界は、読売新聞の天下だったといっても過言ではありません。その一方悲惨だったのは、朝日新聞でした。「大手合」という囲碁界の屋台骨を支えていながら、最高位9段の棋譜は載せることができないのです。むろん1949年まで囲碁界には9段(昔なら即名人)が存在していなかったというのが、「大手合」を主催しても矛盾がない最大の原因でした。しかし、1949年、藤沢庫之助と呉清源が9段位について以降、続々と9段が誕生するのは時間の問題だったのです。朝日新聞にとっては、価値の暴落が目に見えている「大手合」にかわる、大型棋戦が何としても必要でした。200年近い期間、たった4名しか出現しなかった、伝説の「名人位」を囲碁タイトル戦として蘇らせよう!!!! 毎日新聞主催本因坊戦の5倍の契約料を提案したのは、朝日新聞の意気込みのあらわれだったのです。

そしてその思惑は、見事にポシャってしまいました。

朝日新聞の豪腕役員は、本因坊戦の5倍の契約料を提示する位ですから、相当アクの強い性格の持ち主だったようです。日本棋院の実力者、藤沢庫之助と衝突。加えて、日本棋院と向こうを張って設立された関西棋院に何も根回しをしていませんでした。関西棋院の総帥、橋本宇太郎にまでつむじを曲げられてしまい、万事休す。朝日新聞の囲碁名人戦企画は、潰れてしまいました。むろん、名人は推戴されてなるもの、という囲碁界の認識も、名人戦企画の出現を妨げたことは言うまでもありません。

しかし、囲碁界の財政事情の逼迫は、日一日と深刻さを増していきます。1950年代後半、タイトル戦として囲碁名人戦を作ろうという機運がもりあがりました。藤沢秀行が囲碁名人戦開催をかかげて理事に就任。むろんこのとき藤沢秀行は、朝日新聞に名人戦企画を打診しました。しかし、本因坊戦の5倍の契約料という破天荒な企画を提示できた豪腕役員は、朝日名物、派閥闘争に巻きこまれ、すでに朝日新聞を退社していたのです。朝日新聞は、契約料2500万円の名人戦を引きうけることができません。そこで名乗りをあげたのが読売新聞でした。なによりも「碁聖」呉清源が強すぎて、名だたる日本棋院・関西棋院の棋士を全員、「定先以下」に打ち込んでしまい、もはや対局相手さえままならず、四苦八苦していたのです。名人戦の誕生は渡りに船でした。契約料2500万円で名人戦を引きうけ、1961年より読売囲碁名人戦が開始されることになります。そして、この読売囲碁名人戦こそ、将棋名人戦までまきこむ、諸悪の根源になってしまうのです。

読売囲碁名人戦は、結果からみれば最悪の棋戦でした。

なによりも、格式としては囲碁界最高でありながら、1961年から、1975年まで契約料が2500万円で据え置かれ続けたのです(物価調整で1割増2750万円になってはいます)。1950年代初頭に、2500万円が提示されたことから考えると、20年以上据え置きされたといってよい。当時は、デフレの昨今とちがい、年6%の物価上昇の時代。事実上、1/4の切り下げです。囲碁界のタイトル戦序列は、名人戦を頂点としていたからたまらない。囲碁棋士の貧窮は、すさまじいものでした。この時期、今の7大タイトル戦の前身が勢揃いしたのですが、7大棋戦のタイトルホルダーでさえ、タイトル料では生活できず、アマ相手に指導碁をおこなうことで生計をたてていたほどだったのです。

このとき、読売新聞がおこなった詐欺まがいの手口はあまりにも有名な話です。

囲碁棋士の困窮ぶりを日本棋院から聞いた、読売新聞の某役員。「それではスポンサーをつけませんか??」と日本棋院に提案しました。読売新聞と日本棋院の担当理事が会社回りをおこない、トヨタが「年3000万円×3年間」のスポンサー料を払ってくれることになりました。大喜びする日本棋院。ところが、このトヨタスポンサー料9000万円、すべて読売新聞の懐に入り、一銭も日本棋院に引き渡されることはなかったのです!!  契約をきちんと結んでいなかったことから、このような事態が起こってしまったらしい。とはいえ、たとえどんな想像をたくましくできる人間でも、「天下の読売新聞社」が2500万円を日本棋院に払って名人戦の棋譜を日本棋院からもらいながら、トヨタからもらった3000万円を一文も日本棋院に入れないなんて、考えもつかないでしょう。契約をきちんとしなかった日本棋院を責める気にはなれません。元々読売新聞社などに、「信義」などこれっぽちも期待してはならないのかもしれませんが。

さすがの大人しい日本棋院所属の棋士も、読売新聞に耐えかね、とうとう反旗を翻します。3000万円を詐取した契約料2500万円の読売新聞には名人戦を主催させない!!。契約料1億円を提示した朝日新聞に、囲碁名人戦を移管することを決定したのです。これが「朝日囲碁名人戦」騒動の発端でした。70年安保の時節柄、読売新聞の横暴に耐えかねた、囲碁プロレタリアートの人民蜂起というノリかもしれません。

今週4月13日号の『週刊新潮』は、反朝日キャンペーンの一角として、今回の将棋名人戦移管騒動に絡め、1975年~76年の囲碁名人戦騒動をとりあげていますが、バカ右翼のウソつき出版社だけあって、信じられないデタラメとウソに満ちています。 朝日新聞「2億6000万円」の契約料提示は、1億円の間違いですし、「朝日の悪評」も、「読売の悪評」というか「読売のネガティブキャンペーンによる朝日・日本棋院の悪評」の間違いでしょう。いったい、何を根拠としているんでしょうか。おまけに将棋永世名人位は、連続5期の防衛が必要と書く体たらく。むろん通算五期の間違いですが、将棋や囲碁を知らない人物に記事を書かせていることが、ここまであからさまなのは問題がありすぎるのではありませんか?。てか、週刊新潮の「反朝日」記事は、いつもこの程度の記事なのかもしれませんが。

閑話休題。

「やらずぶったくり」「詐欺まがい」の読売新聞社というかゴミ売新聞社は、名人戦を失うことを恐れ、ただちに日本棋院に契約料1億円を提示して、朝日新聞に名人戦を引き渡さないように求めました。というか、9000万円の詐取の一件はどうなったんでしょうか。そればかりか「伝統と信義を重んじないのか(今の毎日新聞と同じw)!!!」と囲碁界の評判を地に落とそうと、日本棋院に対してネガティブキャンペーンを大々的に始める始末。「伝統と信義」を口にする新聞社こそ気をつけろ!!の良い例証といえるでしょう。挙げ句の果て名人戦の棋譜を引き渡せ!!と日本棋院を裁判所に提訴。そればかりか、藤沢秀行を総大将に、日本棋院所属棋士の切り崩し工作を大々的に展開するのです。当時の日本棋院理事長は、偉かった。読売の社をあげてのネガティブキャンペーンに耐えぬき、和解が成立。囲碁名人戦は、朝日新聞に引き渡す。そのかわり、読売新聞は囲碁名人戦以上の契約料で、新棋戦を始める。このとき始まったのが、読売囲碁棋聖戦でした。日本棋院は、2500万円と比べれば、契約料1億円の2つの棋戦を手に入れることができたのです。雨降って地固まる、三方一両損的な解決。めでたし、めでたし…のように思えた。実際、中山典之『昭和囲碁風雲録』(上下)にも、そのように書いてあります。

しかし、この読売新聞ネガティブキャンペーンは、恐ろしい副作用をもたらしたことが最近分かっています。1975年頃、子どもだった人たち。つまり1960年代生まれの囲碁7大棋戦のタイトルホルダーは、現在も世界戦で大活躍する依田紀基・元名人を除けば、彦坂直人くらいしかいないのです。読売新聞のネガティブキャンペーンの時期、日本棋院の院生(将棋連盟でいえば奨励会会員にあたります)数が激減しました。この世代は、1950年代生まれの棋士の壁に阻まれ続けたのです。そして、1960年代棋士が活躍しなければならない1990年代、囲碁世界最強レベルから日本は坂道を転げ落ちるように転落してしまい、韓国最強時代を迎えます。現在も一強韓国の下で、日本・中国が必死になって追撃している構図はかわっていません。1970年代生まれの若手棋士が近年タイトル戦を賑わしはじめ、若干希望が持てるようになりましたが、まだ世界戦で韓国に歯が立ちません。

読売新聞のネガティブキャンペーンは、日本囲碁に取り返しのつかないほど、深い傷を負わせてしまったが分かるでしょう。こんなことなら、読売新聞は最初から囲碁名人戦など主催するべきではなかったのです。そして「読売VS日本棋院」の対決は、ご存じ、将棋連盟に波及することになりました。名人戦主催紙が朝日新聞から毎日新聞に移転することになったのは、この囲碁名人戦騒動が大きかったのです。


(長くなりましたので<3>に続きます。暖かい応援をおねがいします)

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Last updated  Nov 4, 2006 02:55:45 PM
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