|
カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
![]() (承前) ▼ 果たして「抑圧されたものの解放」という構図に依拠しないで、政治的倫理的ビジョンを切り開くことはできるのだろうか。主体の概念に包摂されない「外」の記憶を呼びさまそうとして逝ったフーコー。 ▼ ドゥルーズは、フーコーが提示した調整管理的権力をひきつぎ、「管理=コントロール」権力を「規律訓育型」権力とまったく異なったものとしてとりあげる。もはや空間・時間の分割・配置はない。そこでは、コンピューター管理による環境そのものを流動的なまま管理=コントロールする仕組が作られている。抵抗は、「人間」が行うのではない。ドゥルーズは、われわれ自らが「人間」の「外」、すなわち「生命」の「力」を秘めていることに賭け、情報と生命のテクノロジーに希望を見いだそうとする。 ▼ ジョルジョ・アガンベンもまた、フーコーの仕事を引き継ぐものだという。アガンベンは、ギリシャでは「生」が「公共的」な「言説」のビオスと、「生きている」という事実だけのゾーエー、この2つに分けられていたことを明らかにする。彼は、近代における政治の戦略点として「ゾーエ」を捉えたフーコーを批判し、あらゆる政治的秩序(=主権)が出現する際、常に、「ゾーエ」は「例外状態」として「排除」されながら「包含」されてきたことを強調する。 「ビオス」には、「ゾーエ」がつきまとう。ギリシャのポリス的政治でも、ゾーエである「剥き出しの生」の排除によって初めて、ロゴスの境界線と「政治的なるもの」が確定されるのだ。 ▼ 「法的なもの」「超越的」なものの対極に≪生政治≫を置いたフーコー。アガンベンは、主権にゾーエが不可避である以上、主権とともに出現する「法的なもの」は、≪生政治≫的な空間に位置づけられなければならないと批判する。アガンベンは、近代の極北、「人種管理」「優生学」「民族浄化」について、旧来の「法的権力」が≪生権力≫に入り込む通路としか捉えず、「収容所」を軽視したフーコーに対し、≪生政治≫の枠組で思考することをやめない。「収容所」とは、ゾーエという「剥き出しの生」が露呈される空間の別名である。近代以降に出現した、それまでと異質の社会秩序は、ゾーエそのものが顕示されることで、言説的主体「ビオス」が壊滅的に低下すること、すなわち「収容所」の例外状態が恒常化した社会に他ならない。そこでは、ビオスとゾーエが曖昧な交差点をつくりだし、優生学・人体実験・脳死の身体………本来なら「収容所」的、例外的とみなされていたものが、政治として先鋭化する。もはや、近代的「法」「公共性」に依拠した論理・倫理では、その領域を捉えることができない。 ▼ アウシュビッツの「生き残り」とは、何か。アガンベンは、そこにグレイゾーンを見いだし、グレイゾーンにおける責任の取り方について思索する。誰が加害者で、誰が被害者か。そもそも「生き残り」は、被害者といえるのか。アウシュビッツで生き残ることは、仲間のユダヤ人を売り渡したことではないのか。否、生きることとは、何かを誰かに売ることを意味するのではないのか。アウシュビッツの証言等、「剥き出しの生」が現れるグレイゾーンの世界では、「法的」システムを前提とした、伝統的倫理学の「責任」では捉えられない。そこは、「無-責任」の世界ではないのか。 ▼ アウシュビッツが倫理の再考を迫るのは、責任を負うからではない。「排除」されて「見えなく」されていた、「倫理と非倫理」「人間と非人間」の境界が露呈するからである。「剥き出しの生」から、主体は立ち上げられるのか。可能だ。ただ主体は、「恥辱」を追うものとして現れる。「自己」において「自己に非ざるもの(非自己)」が現前して逃れられない。 「恥ずかしい」のは、レイプされることではない。感じてしまうこと―――被動であるはずなのに、能動と絡み合ってしまう地点―――にあるのだ。「生命」を生きる主体は、「責任」の「主体」ではない。アウシュビッツの意義とは、主体の構造―――主体は、言語が包摂しえず遺棄する他ない「生」と、それに引き渡されながらも排除することで出現する言語装置としての「人間」、この2つの揺れの中の「残りもの」として、「恥ずかしさ」という感情として現れる―――を明らかにしたことにあるという。 ▼ またアガンベンは、「法」と暴力について考察を深めてゆく。法から閉め出され、法が包摂するのは、「剥き出しの生」である。そして、言語同様、それ自身において基礎付けることができない「宙づり」状態にある。ただ、この「不在」であるが故に力をもつ「法」というデリダ的議論は、「無が無制限に存続することを許してしまう不完全なニヒリズム」「否定性を見るだけ」で、法システムの無批判な維持にしか結びつかない、と批判する。「法」の外部は「生」であって、その境界地域で「法」は消尽してしまう。アガンベンは、ここにベンヤミンの「法維持的暴力」「法措定的暴力(神話的権力)」―――前者は法内部で法的秩序維持に発動されるのに対し、後者は法無き場所に法を設定する「法の外」(例外状態)を内部に抱えこむ暴力―――を援用して、この2つの間の分かちがたい緊張―――外部が内部に、「剥き出しの生」が「法」に介入する―――をつなぐ、ベンヤミンの第三の暴力「神的暴力」―――「法措定的暴力」を浄化する純粋暴力―――こそ、「生」の領域の露呈であり「法」の根源ではないか、と提起する。それは、このベンヤミンの「神的暴力」をホロコーストと結びつけ「否定」してしまうデリダとシンクロしていて、たいへん興味深い。 ▼ 加えて、アントニオ・ネグリも、「ドゥルーズ-アガンベン」のラインから眺めると、また違った姿がみえて面白い。媒介(国家、代表制、寡占メディア)に依存せず、超越を想定せず、すべてが内在によって機能する、≪生政治学≫的な原理によって貫かれた社会。それが≪帝国≫という社会らしい。マルチチュードは、コンピュータなどによって、媒介に依存しないでダイレクトに参与する。「例外状態」、「剥き出しの生」をすべる警察……フーコーを世界システムに接続させたもの、それがネグリの議論だという。フーコーが明らかにしなかった、「法」の支配にとって代わる「生」の「生産」。ドゥルーズ「生産する『機械』」で提示されていない、カオス的不確定的「出来事」性を超えた、社会的動態の摘出。ネットワーク的生産とコミュニケーション的主体をとなえたイタリア・マルクス主義が把握できていない、≪生政治≫的、動態的文脈。ネグリは、フーコーが見いだした認識論と、ドゥルーズが解明しようとした後期資本主義社会の動態を、イタリア・マルクス主義の観点を組み込みながら、具体化しようとする。 ▼ ≪帝国≫は、グローバル化(均質化)とともに、ローカル化(差異化)を産出する。差異のポリティクスをのべるだけのポストモダンと、植民地主義の残滓を暴くだけのポストコロニアルは、敵を取り違えているにすぎない。「脱構築」は、批判に堕してしまうか、不可知な「他性」に向かう究極の「正義」としての「責任」の「主体」を、その空虚さにおいて強調してしまう。「他」を探す行為は、「内在」の力を取り出すことなく、「超越」を構成してしまう幻想の、いわば最後の砦になってしまう。同一化的装置を解体して、空虚な不在としての「他」を想定することもない、差異化の運動を取り出すため提起されるのが「マルチチュード」に他ならない。情報ネットワークによって可能になった、内在と直接性による、「公共性」とは違った共生の位相、それが「共(コモン)」であるという。マルチチュードの意義とは、伝統的共同体、理性的計算を前提としない、アイデンティティや、啓蒙的前衛など、いっさいの「超越」「近代的権力」を拒否する世界の肯定的描像を描いた所にある、として本書は締めくくられる。 ▼ なによりも、フーコーを軸とした壮大な現代思想の展開が、コンパクトにまとめられていて、「目から鱗」というしかない代物だ。フーコーがどれくらい毒々しい思想家であったか。執拗に述べられていて、たいへん面白い。自我中心性、自文化中心主義を持たない、他に向けられた「正義」の主体を構想する「レヴィナス~デリダ」的主体は、ビオスの議論に過ぎない。「不在」からくる相対主義を「他」性によって逃れようとするデリダとは違い、真理の生成をポジティブに肯定するフーコーには、「不在」が存在しないという。なによりも、強調されているのが抵抗の「中心」を考えることも無効、という議論であろう。生権力は、われわれの「生」に働きかけるが、守ろうとするものは「人間」の社会に他ならない。「人間」から抜け出し「生命」であることを掴み出すこと、ここに抵抗の拠点があるという。ローマの伝統的「生」の排除として、ただ廃棄されるだけの人間「ホモ・サケル(聖なる人間)」、どこにも「一」を形成しない「多」であること「マルチチュード」……… なによりも、抵抗のポストモダン的「主体」として「言語(情報)」「コミュニケーション(労働)」による「身体」を想定することは、フーコーやドゥルーズが拒絶した「超越」の復活になるのではないかというネグリ批判には、うならされる他はない。 ▼ むろん、哲学の概説書・入門書とは、役に立たないものの代名詞にすぎない。所詮、「問題意識」なくして読んだところで、益するものは何もないからである。さらに、哲学書のコンパクトな「まとめ」「教科書」自体、哲学そのものの自己否定のようなものかもしれない。哲学書そのものがもつ難解さとともに、面白さも消えるのが常だから。 ▼ でも、監視カメラって気味が悪くないか……ネットの情報管理強化って怖くないか…こんな不満・感情を抱く人には、この本は福音といってよい。その気味悪さの由来・理由・処方箋(試行錯誤でしかないが)が述べられているからです。「生命」レベルをターゲットにした権力に向き合うには、どうすればいいのか。「現代思想」の強力な流れ、「スピノザ~ドゥルーズ」のラインを押さえる教科書としては、最適の書物といえるでしょう。一家に一冊、常備しておきたい本の一つです。 ▼ お試しあれ。 (長文にも関わらず、暖かい応援ありがとうございました) 評価 ★★★★ 価格: ¥777 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[哲学・思想・文学・科学] カテゴリの最新記事
|