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書評日記  パペッティア通信

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▼  視覚的領域におけるメディア手段の多様化は、内容と形式の貧困化・単色化をもたらす。こうした画像情報の貧困化の頂点こそ、アニメ絵なのではないか。われわれの想像界に共有可能なコード系列の導入がおこなわれたことが、多型倒錯的な要素―――セクシャリティ―――の導入を招き、自律的欲望の対象の自立―――それも現実の性的対象の代替物ではない、現実という担保を必要としない「虚構」―――の前に「現実」が額づいてしまう、原因にあたるのではないのか。「虚構」「現実」の区分けが厳しく、「図像そのものが性的魅力を帯びるべきではない」西欧的文化。それに比べ、春画・ポルノコミックなどの隆盛は見られる日本では、「描かれたもの」が「リアリティ」をもつことが許されている。そうした虚構のリアリティを支えるものこそ―――この虚構の世界は、象徴的去勢を被らないが故の「去勢否認」に満ちた過剰な性的倒錯の空間であり、そこではハイ・コンテクストであるが故に「了解可能性の減衰」が生じてしまうので、その減衰に抵抗するには欲望を帯電させ続けなければならないのだ―――セクシャリティに他ならない


▼  両性具有・変身・能動性・被動性が奇妙に混在する戦闘少女は、意味のレベルにおいては、複数の想像的現実として多様な「倒錯」を掻きたてながら、外傷が欠如した「ファリック・ガール」―――彼女たちの外傷(トラウマ)や復讐が作品内で主題化されることは決してない―――として、空虚なペニスに同一化した存在である。彼女は、ヒステリー化した存在であって、虚構の日本的空間にリアリティをもたらす欲望の結節点である。彼女たちは、トラウマによって、日常的リアルに汚染されることがない。われわれが、ヒステリーに魅了されるとき、エロス化された実体としての身体イメージから出発して、その深層にある外傷へと欲望が向けられる。一方「ファリック・ガール」に対して、「戦闘」という享楽に魅了され、エロスの魅力と混同されることで、萌えが成立するのだ……… 


▼  戦闘美少女ブームから、「今、女の子が元気である」という議論を導いてはならない。そのような議論は、「虚構=現実の模倣」を前提としているだけでも無効なのだが、主体の転移を要請する「もうひとつの現実」を忘れてしまっているが故に一貫して無効なのである………  まことに良くできた精神分析になっていることがよく分かるでしょう。 「おたく論」としては、斉藤環氏当人がオタクであることも手伝って、違和感のないものに仕上がっていてうれしい。『白蛇伝』の女性に憧れた過去を「虚構によって強いられた不本意な享楽」と捉え、アニメファンを嫌うようになった宮崎駿。ピグマリオン系戦闘美少女の系譜としてエヴァ以降のブームを捉えるのも、なかなか面白いものがあります。 「おたく史」にいたっては、オタクにはむしろ、物足りないといえるような手堅さが感じられるほど。なによりも、ラカン理論の解説がありがたい。想像界とは、イメージや「意味」や「体験」の領域のこと。 「空虚」であることで、欲望やエネルギーを媒介する女性のことをヒステリーとよぶ………  ご当人の意図とはかけ離れているとはいえ、「良く分かるラカン」といった趣きさえ感じられます。「解離した生」こそ倫理的である!!!  そう主張して、自らのセクシャリティを利用しながら、「神経症者の生」を生き抜くことを提唱する姿は、たいへん共感できるものがあるのではないでしょうか。


▼  ただ、『バフィー 恋する十字架』などをめぐって、海外での戦闘少女モノが紹介されているものの、過小評価されてしまい、行論の中で位置づけられていないのが気にかかってしまう。1990年代後半のアメリカにおいて、「戦闘美少女」というジャンルの台頭が述べられているものの、アメリカでのメディア環境とどのような関わりがあったのか、ほとんど示唆されることなく終わってしまっている。現代日本特有の環境の強調は、精神分析にはあるまじき「早すぎる歴史化」ではないのか。 また日本製の「ゲーム」について、ほとんど触れられていないのも、かなり減点する必要があるでしょう。とくに90年代以降は、加速度的にゲーム、とくにギャルゲーやエロゲーの増殖が見られた時期。ゲームを分類対象に入れないで、13類型がどれほど有効な分類なのか、いささか疑問に感じてしまう。


▼  何よりも、ラカン派精神分析固有の問題点としては、「戦闘美少年の精神分析」はどうしたのか、という問いかけをせざるをえないことにあろう。異常増殖が見られることは、戦闘美少女も戦闘美少年も変わらない。美少年たちもまた、美少年であることを止めることなく、戦いに赴くのではないか。そうなると、男性オタクが戦闘美少女を好むように、女性のオタクは戦闘美少年を好んでいるのだろうか。美少年のエロスとリアリティは、どのように結びつくのか。そもそも「女性は存在しない」のであるならば、女性の愛とは何か。たちまち浮かび上がるこれらの問題は、まったく解決の糸口が与えられない。ラカン派分析は、どうしても「ヒステリー」に偏ってしまうからだ。女性は常に分析の対象であっても、女性の対象が分析された所にお目にかかったことはない。今回も然り。誠に残念なことである。


▼  とはいえ、なかなか面白かった。様々の問題があるとはいえ、やはりサブ・カルチャー研究の古典というだけの面白さはあった。ご興味のある方にはお勧めしておきたい。  


▼  それにしても、ちくま文庫は大量の絶版本を抱えている。なんとか復刊してくれんかしらん。『テロルの現象学』なんか、ブックオフにも落ちてないし。



評価 ★★★
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Last updated  Sep 11, 2006 08:04:02 AM
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