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書評日記  パペッティア通信

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Aug 6, 2006
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カテゴリ:政治


▼  ネット史料として、毎日新聞にのった、保阪正康の議論をあげておきます。アホなことをいう奴のブログ・掲示板には、コピペして貼ってあげてください。なお秦郁彦氏の論説はこちらにあります。


● 宮司の歴史観に怒り 保阪 正康 (作家)

健康に不安をもった天皇の「公式」発言
A級戦犯合祀への不満を追認するもの


  富田朝彦元宮内庁長官の在任時のメモが発見され、そこには昭和天皇の靖国神社への不満が直截に語られていることが明らかになった。各メディアでもこの富田メモについて多様な視点から論じられているが、しかし何かが欠けているとの感が否めない。 

  このメモの靖国神社についての部分は字数にしてわずか125字程度だが、きわめて歴史的な意味をもっている。昭和天皇の個人的直話が明らかにされるのは逝去後の「昭和天皇独白録」以来のことと思われるが、今回のこの直話はいささかの推測を重ねれば、昭和天皇自身が自らの健康に不安をもち、これだけは語っておきたいとの強い意志があったことが窺われるのである。しかも昭和天皇は側近に対してもその職務に応じて、話す内容を変えるのだが、宮内庁長官にその意思を伝えたことはこれは公式のものであり、いずれ明らかになったとしてもかまわないという考えがあったとさえ思える。

  一部の論者がこの富田メモについて、その信憑性を疑っているが、この125字が伝えている歴史的事実を検証すると、そういう疑い自体があまりにも史実に鈍感だということがわかる。私の見るところ、この富田メモが伝えている内容はすでに知られていることであり、ただひとつ欠けていたのは、昭和天皇自身のそれを裏づける史料があるかないかということだった。今回のこのメモはすでに語られていることが追認されたとの意味をもっている。

  昭和天皇は1975年11月に靖国神社の参拝に赴いてから以後は一度も足をはこんでいない。松平永芳が靖国神社の宮司に就任して、すぐにA級戦犯を合祀したのは、78年の例大祭の折である。昭和天皇が靖国神社参拝に行かなくなったのはこのことに不快感をもっていたからだと考えられてきた

  そのことを侍従(その後、侍従長)でもあった徳川義寛氏が、「侍従長の遺言」(97年刊)で裏づけた。昭和62(1987)年8月15日の御製として「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれいはふかし」があるが、これは合祀への不満、それに伴う混乱を憂えていたと書いている。

  さらにこの富田メモでの昭和天皇の怒りは松平宮司の歴史観にもあるように思う。というのは、松平氏は戦犯合祀について宮司職をはなれたあとにある講演で、日本の戦争状態は1952年4月28日までのアメリカを中心とする連合国の占領下でも続いていたと自身の歴史観を披露した。したがってこの間のA級戦犯の死者は(絞首刑の7人以外の7人)も戦死扱いだというのだ。東京裁判は戦時下の不当な軍事裁判ということになる。この歪んだ戦争間に、昭和天皇は怒りをもっていたことがわかる。それが「松平(注・永芳氏の父慶民氏。天皇側近)は 平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている」という表現である。

  さらに最後の「それが私の心だ」は、天皇の怒りは頂点に達しているとの意味である。私はこの最後に記されている7文字を読みながら、天皇が2・26事件時の本庄繁侍従武官長を叱りつけた強い表現をなんども思い浮かべた。




▼  瑣末な出来事にこだわって、描き出す全体像がかなり陳腐だなあ、という印象を保阪正康氏の昭和史に関する著作を読むたびに感じていたのですが、今回はかなりまともな歴史研究者の一員という感じです。おいらは、靖国神社・国立追悼施設に反対どころか、「死者を追悼することさえ必要ない」「悲しむな、死は必然なのだ」な~んて考えている人間ですが、そこに安らぎを感じる方々を本格的に批判したいとは思わない。肉親の死のつらさが分からない人間ではいたくない。私には資格がない。ただ、それをテコにして、メモはニセモノだ~って、根拠も乏しく逆ギレされてもなあ………。それは違うだろう、と思うんですよ。


▼  描き出す全体像がでかいだけの研究者は、このような時にはお呼びではないのかもしれません。


保阪正康氏



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Last updated  Sep 20, 2006 09:46:29 PM
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