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テーマ:政治について(20570)
カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
![]() ▼ 小泉首相の靖国神社参拝が15日行われ、余震が続いている。読売新聞によると、首相の靖国参拝「支持」53%とのことらしい。 ▼ ところで、このブログを読む貴方は、以下の内閣府調査について、どのように思うだろうか。この調査は、朝日新聞8月6日朝刊の日曜版にのっていたもので、世界同時調査らしい。 ▼ 「戦争が起きたら国のために戦うか?」 中国 はい 89.9% いいえ 3.1% イスラエル はい 75.1% いいえ 18.3% 韓国 はい 74.4% いいえ 25.3% 米国 はい 63.3% いいえ 25.5% イタリア はい 51.8% いいえ 34.4% ドイツ はい 33.3% いいえ 42.3% 日本 はい 15.6% いいえ 46.7% ▼ 総じて、侵略を受けた国が高い(ベトナムは中国よりも高い)。そして、第二次大戦で、枢軸国側になった国がとりわけ低い。朝日の特集では、「日本は敗戦で付箋を誓った。この結果を『情けない』という必要はないと思う」という、暖かい言葉で結んでいる。しかし、この調査は、前掲の「靖国神社参拝賛成派」が53%もいる、という調査と重ね合わせると、俄然、その意味がかわってくるだろう。なんと、「小泉靖国参拝」賛成派の「3人中2人」、ヘタすると「6人中5人」(なぜなら、参拝反対派にも国のために戦おうとする人はいるはずだから)が、「国のために戦わない」連中だったのだ!!! ▼ かなりショックな話ではないか。いったい、何のために、彼らは死んだのだろう。そもそも靖国神社は、国家が責任を持って、国家のために戦争によって死んだ人を祭る神社(BY 麻生外相)ではなかったのか。靖国神社という「国家のための死」を顕彰する神社へ、国家の指導者が参拝することに賛意を示しながら、国家のために戦おうとは、まったく思わない人間。そんな人間が、最低で「3人中2人」、最高だと「6人中5人」までいることを示す、内閣府調査と読売新聞調査なのである。「自分の代わりに他人が死んでくれ」「自分は死にたくないけど、他人が死んでくれるならそれを顕彰してあげよう」。そんな人間が、日本ではかなりの割合で増殖しているみたいなのだ。 ▼ 「日本は右傾化している!」「いや、普通の国のあり方に戻っているだけだ!」 ▼ このいずれも、私は間違っていると思う。日本は右傾化してはいないし、普通の国にもなっていない。ただ単に、日本人は、どんどん卑劣になっているだけにすぎない。耐震偽装事件に始まり、ライブドア・村上ファンドなどにいたるまで、法の網をかいくぐって稼ごうとする人々の増殖。「勝ち組」「負け組」など、セチガライ雰囲気の瀰漫。そんな傾向と、軌を一にするかのように増える、ナショナリズム現象。どうしようもなく、卑劣な人間だからこそ、「国家」の観念にすがるとしか言いようがない事態の出現。国家のために死んだ人を思うことで、卑劣な自己を直視せず、隠蔽しているだけにすぎない。まこと、国家という遮蔽幕は、真実を見えにくくするものである。 ▼ 今年、そんな連中が、8月15日、靖国神社に25万人も集ったという。昨年より5万人も多いのだとか。あまつさえ、靖国神社反対派との間で、衝突さえ起きたらしい。むろん、リアルに「国家のために戦う」ことを実践しているはずの自衛官が、当直勤務を休んで、「靖国の英霊」の前に集うことなど、考えられもしないだろう。靖国神社参拝者のほとんどは、「国家のために戦う」ことを口先では言うものの、実際「実践に移す」段階になると、ためらって何もしない連中にすぎない。靖国参拝右翼が、「国家のために戦う」かわりに行えることなど、「チマチョゴリを切り裂くこと」「靖国参拝反対派と喧嘩すること」ぐらいなのだ。なんというか、情けないお話である。 ▼ それを思えば、加藤紘一・元自民党幹事長の実家に放火した右翼は、なんと清清しかったことだろう!! 毎日新聞のコラムでは、瀰漫するナショナリズムとこの右翼に対して、事件後、右翼陣営から「文化人らが過激な言辞を競い合うため、右翼は体を張るしかないと思い詰めている」といった声が出たなどと、「過激な言辞」と「行動」を分けて、前者が後者を生み落としたという議論を展開している。そのためなのか、靖国参拝賛成派のブログなどでは、「彼らと自分たちは違う」と、右側の人々が躍起になって、言論の自由を否定した「放火右翼」の行動の批判さえ始めているみたいだ。ちょっとみると、マトモな議論のように思えなくもない。 ▼ だが、それは違う。毎日新聞の社説も、過激行動を批判する「靖国参拝賛成派」の右翼も、常識に囚われるあまり、誤認しているのではないか? 両者とも、「放火した右翼」を批判することで、「放火した右翼」こそ、主張と実践を一致させた、倫理的存在であることを見落としてはいないか? そして、「放火した右翼」を口先では批判する「靖国参拝賛成の右派」こそ、主張と実践を一致させず、他人には「国家」を強調・強制しながら、自分はその言説に隠れて、こっそり「国家のために戦わない」ことを永続化しようともくろむ、もっとも非倫理的存在であることを忘れてしまってはいないか?? 「放火した右翼」と「過激な言論右翼」の2分法、ならびに「放火した右翼」批判は、過激なナショナリズム言説こそ、「国家のために戦わない」アリバイ・免罪符を提供していることを巧みに隠蔽しているが故に、弾劾されなければならないのである。 ▼ 良く考えてもみよう。 「放火右翼」は、テロリストが守らなければならない、最低限の倫理的基準「他人の命を奪う行動にでる場合は、自己の命もまた奪わなければならない」を実践しているではないか。人を殺せるような所業をおこなう以上、自らも殺さねばならない。放火した直後に、割腹自殺しようとしたこと。この倫理性だけは、評価できる。ところが、どうだろう。過激なナショナリズムとやらによって、「靖国神社参拝」に賛成している人々は、そして「放火右翼」を批判する人々は、倫理性が存在するだろうか。「国家」という崇高なメッキが剥がれてしまえば、靖国神社に祭られた人々は、「人殺し」(そして「人殺され」の側面をもつ)でしかない。国家のため、「人殺し」(「人殺され」)になるのが嫌な奴が、そんな人の死を顕彰(または追悼)しようとすること自体、お笑い草ではないか。そして、「国家のために戦う」と口では言いながら、自衛官に志願もしないような人間も、倫理性のカケラも存在していまい。 ▼ かつて、靖国神社どころか国立追悼施設さえ批判する高橋哲哉の『国家と犠牲』(NHK出版)のレビューで、『「英霊」ではなく、「靖国の論理」の墓標こそ、靖国神社ではないのか』『高橋哲哉が提起すべきだったのは、靖国の廃棄ではなく、靖国シンパたちが「靖国の論理」を正確・忠実・過激・徹底的に実践することだったのではないか』と書いた。この気持ちは、8月15日をすぎて、ますます強くなっている。靖国問題とは、断じて中韓の外交問題ではない。靖国神社参拝賛成派の急増は、日本人の卑怯モノ化でしかない。参拝賛成派でさえ「国家のために戦いたくない」からこそ、靖国神社が必要になるのだ。 ▼ 「靖国神社の論理」の一刻も早い、靖国シンパによる実践。これこそ、逆説的ながら、靖国神社を無用の長物にさせ、靖国問題の解決につながるだろう。右派の方々には、靖国神社参拝賛成にとどまることなく、徹底的な実践をお願いしたい。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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