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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:社会
▼ 1908年11月23日、西太后の懿旨が下り、次期皇帝が内定した溥儀。「終身禁固の囚人になる」として、養育係が溥儀を手放そうとしなかったことは、その後の未来を暗示しているかのようだ。翌24日西太后死去。12月2日、即位。憲法と国会開設をもとめる立憲派の政治プログラムを約束しながら、袁世凱を追放、皇族「親貴内閣」の成立と続いた。さしもの立憲派も、清朝を見放して、離反してしまう。そこに辛亥革命が勃発。袁世凱は、革命派・清朝宮廷・外国公使館を巧みに操り、2ヶ月におよぶ御前会議の末、保皇派を追放する。1912年2月2日、隆裕太后に「優待条件」とひきかえに、宣統帝退位の上諭を出させることに成功して、自ら中華民国大総統の地位に就任する。
▼ 溥儀の2度目の登極は、1917年7月1日。俗に「張勲の復辟」という。弁髪軍の反乱は、紫禁城に投下された爆弾3発(中国最初の空襲)によって、たちまち蹴散らされ、12日後に退位を余儀なくさせられる。依然、維持されていた北京の「小朝廷」。いつとも知れぬ、「復辟」をこいねがい、「帝王学」にはげみながら、まったく報われない日々は、いつしか溥儀の心中に、イギリス留学の夢をはぐくませる。1922年、天津租界でイギリス風教育を受けた婉容と、文綉の2名と大々的に挙式した翌年、イギリス留学を敢行せんとするも、情報がもれてしまい失敗してしまう。年間700万両が必要とされる清朝皇室維持費は、退位時定められていた、400万両さえ満足に払われることがない。紫禁城から次々と宝物が流出する日々。そんなさなか、1924年奉直戦争において、日本軍部の工作によって、馮玉祥が張作霖に寝返ったのは良いものの、かれは「優待条件」解消を持論とする、クリスチャン・ゼネラルだった。11月5日、紫禁城から溥儀は追放されてしまうのだ。軍閥に殺されかねない中で、仮住まいである「北府」は危険だ。いったい、どこの公使館に移るべきなのか。イギリスへ行きたい!。その溥儀の身柄は、間一髪で、日本公使館の手に落ちる。
▼ 1925年2月以降、天津租界での生活は、イギリス留学も、日本渡航も実現しない、モラトリアムの日々といえるだろう。紫禁城とはちがう気ままな生活だったものの、財政は破綻寸前に追いこまれていた。張作霖爆殺では、一時、天津を抜け出して、満州に行こうとしていたらしい。租界でくらす日々も、乾隆帝と西太后の陵墓盗掘事件などで、溥儀の心は深く傷つく。「側妃」文綉は、一夫一妻制がドミナントである天津租界で暮らしていくうちに、自分のおかれた環境に気付き、皇帝相手に前代未聞の離婚訴訟をおこしてしまう。
▼ 満州事変では、日本軍の手を借りて「復辟」をかなえられると信じて天津を抜け出したものの、「五族協和」の欺瞞に鬱屈させられる。溥儀は、1935年4月の訪日において、皇太后節子の心温まる待遇をうけたことが、「傀儡」皇帝として生きる中で、心の支えになっていったらしい。これ以降、「天皇と私は平等、一心一体」の実感をいだき、日本人には天皇と同様の扱いをもとめたという。建国神廟建設による、儒教から神道への満州国「国教」変更計画はまだしも、アヘン中毒の皇妃婉容に子が産めないことを見越して、溥儀に男子なき場合、皇帝が天皇に直接願い、日本の男子皇族を皇太子―――具体的には義宮正仁、現在の常陸宮―――を継がせる計画まであったのだとか。その傀儡ぶりには、開いた口がふさがらない。1937年、貴人として迎えた譚玉齢の病死(1942年)は、後の東京裁判では、「反満抗日」を恐れた日本側による「譚玉齢貴妃毒殺事件」(そもそも、中華民国の刺客の幻影に脅えていた溥儀は日本人医師を頼らざるを得ないのだが)として、証人として出廷した溥儀に弾劾されることになるが、ここまでくると、いい気味だとしか思えない。関東軍支配で禁止されていた清朝儀礼が、満州国帝宮の奥深く、溥儀と「清朝王族」の満州族青年たちの手によって、おこなわれていたという事実には、うそ寒いものを感じてしまう。
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Last updated
Dec 14, 2006 12:46:14 AM
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