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書評日記  パペッティア通信

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Sep 18, 2006
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カテゴリ:社会


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▼  『週刊新潮』によれば、秋篠宮家のご息女、眞子・佳子両内親王が、このたびネットでひそかなブームになっているらしい。「高貴なお血筋」「美貌」のプリンセス萌え~~~~なんだとか。驚いた。なるほど、国技館に、大相撲の観戦に来たのか、相撲をとりに来たのかさえ判然としない、天皇家の「呪い」をあまりにも濃厚に受けついだ、「悲劇のヒロイン」愛子様と比べれば、ルックスは断然、両内親王がいい。それは認めよう。しかし、愛子様よりもブサイクな女性など、この世では希少価値ではないのか。『プリンセスといえば、ミネバ様かアザリン様!』 (←古い)と刷りこまれてきた身からすれば、眞子・佳子両内親王で「萌え」られるとは、無欲・博愛の即身成仏の精神なのか、図々しさ・不敬の極北なのか、いまいち良く分からない。
 

▼  狂想曲は、まだ終わらない。秋篠宮家に生まれた男児は、悠仁(ひさひと)と名づけられた。近年「悠」は、人名漢字としての使用が認められ、「悠人」「悠真」などが上位にくるなど、たいへん人気が高い。そこに、41年ぶりの皇室の男子誕生だ。それにあやかって、名前に「悠」を使うブームの予兆があるのだとか.........。やれやれ。ここが中国なら、たいへんな不敬である。皇帝権の本場中国では、至尊の「名前」を使ってはならない、「避諱(ひき)」という習慣が存在した。「悠」だの「仁」だの使えば、不敬罪。命の保証すらない。皇帝が変わるたびに、地名・人名の漢字が変更されてきた。中国歴代皇帝の名前に、結構ヘンな名前が多いのは、一般人があまり使わない漢字で命名される配慮がなされたことが多かったためなのだ、、、、って皆さん、ご存じでしたか?。今回、ご紹介するのは、そんな本場中国のラストエンペラー、宣統帝溥儀(1906年2月7日~1967年10月17日)の生涯をえがいた伝記である。悠仁(ひさひと)生誕記念で、ラスト・エンペラーを読んでみるのも、これまた一興であろう。


▼  溥儀とは、なにものか。生涯3度、皇帝の座につき、最後には思想改造によって、「人民という名の共和国の主人」となる、奇跡的偉業をなしとげ、「中国共産党の広告塔」となった男。その姿は、映画『ラストエンペラー』でもおなじみだ。しかし、本書は問いかけをやめない。溥儀は、はたして、本当に改造されたのだろうか、と。

 

▼  1908年11月23日、西太后の懿旨が下り、次期皇帝が内定した溥儀。「終身禁固の囚人になる」として、養育係が溥儀を手放そうとしなかったことは、その後の未来を暗示しているかのようだ。翌24日西太后死去。12月2日、即位。憲法と国会開設をもとめる立憲派の政治プログラムを約束しながら、袁世凱を追放、皇族「親貴内閣」の成立と続いた。さしもの立憲派も、清朝を見放して、離反してしまう。そこに辛亥革命が勃発。袁世凱は、革命派・清朝宮廷・外国公使館を巧みに操り、2ヶ月におよぶ御前会議の末、保皇派を追放する。1912年2月2日、隆裕太后に「優待条件」とひきかえに、宣統帝退位の上諭を出させることに成功して、自ら中華民国大総統の地位に就任する。

 

▼  溥儀の2度目の登極は、1917年7月1日。俗に「張勲の復辟」という。弁髪軍の反乱は、紫禁城に投下された爆弾3発(中国最初の空襲)によって、たちまち蹴散らされ、12日後に退位を余儀なくさせられる。依然、維持されていた北京の「小朝廷」。いつとも知れぬ、「復辟」をこいねがい、「帝王学」にはげみながら、まったく報われない日々は、いつしか溥儀の心中に、イギリス留学の夢をはぐくませる。1922年、天津租界でイギリス風教育を受けた婉容と、文綉の2名と大々的に挙式した翌年、イギリス留学を敢行せんとするも、情報がもれてしまい失敗してしまう。年間700万両が必要とされる清朝皇室維持費は、退位時定められていた、400万両さえ満足に払われることがない。紫禁城から次々と宝物が流出する日々。そんなさなか、1924年奉直戦争において、日本軍部の工作によって、馮玉祥が張作霖に寝返ったのは良いものの、かれは「優待条件」解消を持論とする、クリスチャン・ゼネラルだった。11月5日、紫禁城から溥儀は追放されてしまうのだ。軍閥に殺されかねない中で、仮住まいである「北府」は危険だ。いったい、どこの公使館に移るべきなのか。イギリスへ行きたい!。その溥儀の身柄は、間一髪で、日本公使館の手に落ちる。

 

▼  1925年2月以降、天津租界での生活は、イギリス留学も、日本渡航も実現しない、モラトリアムの日々といえるだろう。紫禁城とはちがう気ままな生活だったものの、財政は破綻寸前に追いこまれていた。張作霖爆殺では、一時、天津を抜け出して、満州に行こうとしていたらしい。租界でくらす日々も、乾隆帝と西太后の陵墓盗掘事件などで、溥儀の心は深く傷つく。「側妃」文綉は、一夫一妻制がドミナントである天津租界で暮らしていくうちに、自分のおかれた環境に気付き、皇帝相手に前代未聞の離婚訴訟をおこしてしまう。

 

▼  満州事変では、日本軍の手を借りて「復辟」をかなえられると信じて天津を抜け出したものの、「五族協和」の欺瞞に鬱屈させられる。溥儀は、1935年4月の訪日において、皇太后節子の心温まる待遇をうけたことが、「傀儡」皇帝として生きる中で、心の支えになっていったらしい。これ以降、「天皇と私は平等、一心一体」の実感をいだき、日本人には天皇と同様の扱いをもとめたという。建国神廟建設による、儒教から神道への満州国「国教」変更計画はまだしも、アヘン中毒の皇妃婉容に子が産めないことを見越して、溥儀に男子なき場合、皇帝が天皇に直接願い、日本の男子皇族を皇太子―――具体的には義宮正仁、現在の常陸宮―――を継がせる計画まであったのだとか。その傀儡ぶりには、開いた口がふさがらない。1937年、貴人として迎えた譚玉齢の病死(1942年)は、後の東京裁判では、「反満抗日」を恐れた日本側による「譚玉齢貴妃毒殺事件」(そもそも、中華民国の刺客の幻影に脅えていた溥儀は日本人医師を頼らざるを得ないのだが)として、証人として出廷した溥儀に弾劾されることになるが、ここまでくると、いい気味だとしか思えない。関東軍支配で禁止されていた清朝儀礼が、満州国帝宮の奥深く、溥儀と「清朝王族」の満州族青年たちの手によって、おこなわれていたという事実には、うそ寒いものを感じてしまう。


▼  満州国崩壊後、8月18日、飛行機で日本にむかうはずだった溥儀は、日本側の命じた飛行ルートの変更にしたがった所、なぜか奉天飛行場で、飛来したソ連空挺隊に捕らえられてしまい、シベリア捕虜収容所に送られてしまう。嫌々ながら「溥儀亡命」を受け入れた日本政府の一部が仕組んだ罠ではなかったか、など諸説あるが、真相は今も不明らしい。ひそかに国民党政府とつながっていた満州国の中国人官僚とは違い、売国奴で極刑が免れられない溥儀は、シベリアに抑留され続けること、あわよくばヨーロッパに亡命することを願い、国共内戦の永続化を望んだものの、1950年7月、中国に引き渡されてしまう。

 




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Last updated  Dec 14, 2006 12:46:14 AM
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