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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:社会
▼ とにかく、20世紀中国史を網羅するスケールの大きさには、感嘆させられる。 清朝の皇位継承が、「公開建儲制」→「秘密建儲制」→「懿旨建儲制」と移行したこと、「輩字」による一世代一皇帝制だったことは、指摘されるまで気付かなかった。 袁世凱は、帝制運動の際、袁世凱家と清朝皇族の間に縁戚関係を取り結び、「溥儀の岳父」になって「清朝へ大政奉還」しようとしている、と遺臣たちに思わせていたらしい。 その手練手管には、あきれかえるだろう。 シノアズリー(東洋趣味)をもつジョンストンは、溥儀の近眼に気付き、後にトレードマークとなる、丸「眼鏡」をかけさせたことで、家庭教師には収まらない信頼を溥儀から勝ちえたという。 また、満州国の皇室は、イザナギ・イザナミを模して、溥儀と婉容から開始される、としたため、かの溥傑でさえ、皇族ではなかった。 譚玉齢病死後、不特定日本皇族との婚姻(指婚)をもとめたものの果たせなかった溥儀は、最終的に子供を産むのをあきらめ、「幼い少女を自分の手で養育する」ことを願い、李玉琴をめとったという。 東京裁判で溥儀を偽証まがいの弾劾に駆り立てたのは、ソ連側の教唆ではなく、信頼した皇室や自己を利用した日本人が、「漢刊」として裁かれる自分に対して、慰めの言葉をかけるどころか、弁護に名を借りて糾弾をおこなう日本人への嫌悪にあった、という指摘には、あらためてうならされるほかはない。
▼ なによりも、前半生では「復辟」、後半生では「自己の生存」のため、「権力」をもつものにすりよってゆく溥儀の姿は、あたかもカメレオンのようだ。 溥儀も共産党も、「改造された溥儀」を必要とするためお互い演出をいとわない。 その真摯な姿は、滑稽みさえ帯びてくる。 主演・溥儀のメンツに配慮しながら、脚本・共産党は「改造」をすすめるものの、もともと改造されていないため、溥儀はそのシグナルを理解できない。 認罪運動を始めとして、失敗をかさねてしまう。やがて、薫陶よろしく、「共産党の期待を先取りすることができる人間にきちんと改造」される、溥儀。 李玉琴とは離縁するものの、「改造された家庭」をもってほしい、当局期待に応え、溥儀はさっそく看護婦李淑賢と結婚する。そのため、彼の認罪書である「自伝」は、ドキュメントとして面白くするためにも、溥儀の行動の整合性のためにも改訂がおこなわれざるをえなかったという。 しかし、そのような生き様は、「日本の期待を先取り」できるような人間、すなわち漢奸とどのような質の変化があるというのだろうか。
▼ もはや、冒頭の問いは、とっくにでているのだろう。 溥儀は、なにひとつ「人間改造」されていない。 そもそも、かれが退位後、紫禁城の奥で学んだ「帝王学」とは、いったい何なんだろう。 「帝王学」とやらは、この世に存在するのだろうか。 あるというなら、マニュアルとしてまとめられば良いだろうに、そんなものは、つゆ聞かない、帝王学。愛子内親王、悠仁(ひさひと)の教育に必要といわれ、本来皇太子とは違い受けていないはずの秋篠宮が、近年、天皇の側にいることで、いつのまにか「伝授され」「身につけた」とされる、摩訶不思議な「帝王学」。 「帝王学」をまとう王者も、人間改造をうけた公民も、この世には存在しない。 あるのは、「関係」によってそのたびごと規定される、「私」だけなのではないか。 溥儀の生涯をみて感じるのは、溥儀の中にある、途方もない「空虚」である。
▼ そのため本書は、溥儀の2面性に着目するというものの、どこがどう2面性をもっていたのか、最後まで分からなかったのが惜しまれる。とはいえ、力作の本書。秋の夜長に一読されてみてはいかがだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Nov 2, 2006 12:10:10 AM
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