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書評日記  パペッティア通信

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Nov 1, 2006
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カテゴリ:社会
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▼   いやあ、面白い。 本書は、戦前、ファシズム国家によっておこなわれた、悪辣極まりない謀略の記録である。 毛利基・特高課長(兼係長)脚本、「スパイM」こと松村昇、本名飯塚盈延(みつのぶ)主演。 その演目は、「極左共産党の恐怖」とでも言えるだろうか。 


▼   戦前日本において、2人の人間によって画策され遂行された、戦前最大の規模にまで達した、「官製・非常時日本共産党」の育成・膨張と、その破滅まで過程を描いた、一大ドキュメンタリー。 この謀略の伝記が、面白くないはずがない。 本書は、国家権力のオゾマシさについて、語り尽くしてあますところがない。


▼  章立ては以下のとおり。

第1章 最後の賭け―熱海事件と非常時共産党の壊滅
第2章 モスクワへの道―生い立ちからクートベ留学まで
第3章 転回点―武装共産党時代
第4章 背信と謀略―非常時共産党の再建と躍進
第5章 闇の帝王―銀行ギャング事件
第6章 転生―熱海事件以後、死まで



▼   従来の「1931年テーゼ」とは大幅に異なる、クレムリンの都合によって採択された、コミンテルン「1932年テーゼ」。 日本共産党の幹部でさえ、意見は割れて、大揺れに揺れた。 「党大会」による承認手続きは、避けて通れない。 1932年10月30日、その熱海における全国代表者会議を狙い、特高警察は「スパイM」の手引きによって、一斉検挙をおこなう。 世にいう「熱海事件」である。 これによって、事実上、日本共産党は息の根を止められてしまう。


▼   しかし「スパイM」は、単純な特高のスパイではなかった。 毛利基の想定外の独自の行動をも、平然ととる人物であった。 後にかれは、スパイ時代のことについて、「自主独立の境地」であったと語っているらしい。 その「スパイM」の思惟は、どのようなものだったのか。 筆者2人は、丁寧にその過程を明らかにしていく。
 

▼   解きがたい苦悩の底に見出される希望の光でありながら、迫害者に対する英雄的テロリズムのはてしなき苦行の連続(BY 鍋山貞親)であった、社会主義。 その中で到来した、「自らの力で解放した」「労働者の政権」、ロシア革命の福音。 スパイMは、米騒動などで騒然とする中、日本共産党最初の労働者党員にして、革命運動の闘士、渡辺政之輔率いる東京合同組合に身を投じ、労働運動にかかわっていく。 「渡政」に見出され、1926年8月頃、「労働者の祖国」ソ連に派遣されるものの、この頃から彼は、「語学がまるでダメ」「陰鬱な奴」など、それまでの闘士とは違った姿を見せ始める。


▼   「スパイM」が、特高警察当局によって見出されるのは、1929年7月から1930年7月までの、「武装共産党時代」の指導者、田中清玄(当時23~24歳)の逮捕がキッカケとしてあるという。 「中央委員」クラスの党員を中心に、共産党再建が目指されるにちがいない。 中央委員をスパイとして育成せよ。 そうにらんで、網を張っていた、毛利・特高課長に捕らえられた、「スパイM」。 すでに帰国時には、実質的に「転向状態」にあった彼は、拷問されることもなく、自分の意思でスパイに志願したらしい。 彼はモスクワから帰国したばかりの風間丈吉に、指導者になることを要請。 1931年から始まる、非常時共産党の全権を掌握する「スパイM」。 すでに日本共産党再建のシナリオは、毛利基・特高係長と「スパイM」の間で、できあがっていたのだ。


▼   しかし、スパイMは、1931年3月には、仲間からスパイ容疑がもたれていたらしい。 この苦難を乗りこえて、「スパイM」が非常時共産党の全権を握れたのは、風間・岩田たち指導部の全面的信頼と、コミンテルンとの連絡網を抑えることで党の資金ルートを握っていたからだという。 月々2千円が、コミンテルンから渡されていた、当時の日本共産党。 コミンテルンの指揮下に共産党が置かれたのでは、特高も「スパイM」も、都合が悪い。 そこで、上海租界のコミンテルン支部を当局に売って、日本共産党を「糸の切れたタコ」の状態にしてしまう。 「スパイM」は、党の非合法活動「テク」(技術部)を掌握して、資金作りを一手に担う。 風間・岩田も、資金を作ってもらう関係上、「スパイM」には頭があがらない。


▼   特高は、KGBのように、何でも許されているわけではない。 なによりも、スパイを使うことは、超法規的措置であって、使うことは許されていない。 そのため、Mがスパイであることを知っているのは、毛利係長だけなのであって、Mが事情を知らない他の部局に逮捕されてしまっては、お話にならないのだ。 とにかく「スパイM」は、非合法活動に関して能力に関して、極め付き優秀な人物であったらしい。 コミンテルンの援助がこない中、日本共産党の党勢は拡大の一途をたどってゆく。 講座派マルクス主義の学者をはじめとして、文春の創始者・菊池寛や太宰治までに及んだ、シンパの資金網。 Mは、月平均2万円もの資金集めをおこなっていたという。 1932年初頭、その資金網が特高に潰されると、いよいよ「スパイM」は、本領をあらわしはじめる。 佐野学・鍋山貞親の奪還計画を提案して、自ら特高に通報。 有能な活動家は、スパイの汚名を着せて、射殺させる。 


(その<2>はこちらになる予定ですんで、応援をよろしくお願いします 長すぎて1日では終わらなかった…)



評価  ★★★☆
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Last updated  Dec 14, 2006 12:47:37 AM
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