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書評日記  パペッティア通信

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Dec 2, 2006
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(この日記は1からの続きですので、こちらからお読みください)



▼   第4章は、「華青闘告発」で浮上した、マイノリティーについて語られる。 女性、在日、部落民、障害者、琉球人、アイヌなどの問題の噴出……… それは、マジョリティー=自治会組織に包摂されないことで出発した、全共闘運動の帰結である、という。 もはや正史は、この段階には、存在しない。  


▼   この「偽史」の創出と実践は、「世界革命」という大きな物語への批判として展開された。 とはいえ、この「偽史」への転換を先取りしていたのは、新左翼ではなく、三島由紀夫。 かれは、「偽史」への滑り落ちを防ぐために「天皇」というジョーカーを必要としたのだ、という。 この意味では、偽史的想像力に彩られたかにみえる、吉本隆明『共同幻想論』でさえ、「正史」の優位性、「核」を前提とした、相対化にすぎない。 吉本隆明の影響下にあった新左翼は、このような「硬い核」をもとめる、ナショナリズムにすぎなかったという。 ナショナリズムの克服においても、偽史的想像力、ヴァーチャルな思想に逸脱する他はなかった。 「異端趣味」を越えた「偽史の時代」、オカルト・ブームの到来であり、歴史や政治ではなく、「虚構と幻想小説」の季節の到来であった。 網野史学も、この一翼に連なるながら、「正史」を主張する強力なもの、であるという。 また村上春樹の文学も、この一翼をなすという。 


▼   第5章は、華青闘の突きつけた課題が、内ゲバとどのように結びついていたのか、丁寧に論じられていて、かなり刺激的な内容である。 フェミニズムとエコロジーは、今でこそ新左翼のもたらした果実の2枚看板であるものの、「統一と団結」を阻害するものであって、マイノリティー運動ともども、「革命」まで臥薪嘗胆すべきものであった。 この時期では、上野千鶴子が批判したように、「ウーマン・リブ」のある種「本質主義的」段階であって、社会構築主義段階にいたっていない。 しかし、この「本質主義的」違和感が、革命によっても解決されない課題の存在を認識させ、マイノリティー運動を準備していく。 華青闘告発にもっとも鈍感だったのは、新左翼創設と60年安保を主導した、吉本隆明であり黒田寛一であり、また革マル派だった。 マイノリティー運動の課題にもっとも誠実に取り組んだ中核派は、「不可能な囲い込み」を行おうとしたのではなかったか。 「日本人が革命の主体になりうるのか?」という、あまりにも回答できない問いかけ。 その問いかけへの誠実な回答こそ、内ゲバという「暴力革命」の遂行に他ならない!!!!!


 われわれは、内ゲバが革命でないことを知っている、しかしそれを革命として遂行しなければならない



▼   この論理こそ、武装蜂起と呼号しながら、その手前に留まって暴力闘争を実践するアイロニカルな方策であったという。 連合赤軍が、武装蜂起の前で「セミナー的共産主義」を実施した挙句、過労死することは避けなければならない。 もはや近代的規律・訓練によって形成される「主体」は存在しない。 どこまでも軽い主体。 


▼  ここに、革マル派と他派の決定的差異が存在するのではないか、という提起こそ、本書の白眉かもしれない。 規律・訓練的主体形成に全力を注ぎ、蜂起の日を永遠の彼方においている革マル派は、1968年以降、新左翼各派から追放の憂き目にならざるをえない。 どこまでも軽い主体が陥る、シニシズムの罠を切断すべく、革マル派が実施したのは、内ゲバの「首謀者」である「はず」の中核派・本多書記長の殺害と、殺害の後、当然到来しなければならない、「テロ停止宣言」であった。 しかし、内ゲバは収まらない。 中核派のテロは、最高指導者の命令に従うようなものではない。 すでに、そのような主体は解体しているのだ。 かくて革マル派は、「権力の謀略論」を唱えることになる。 われわれは、内ゲバが「権力の謀略」でないことを知っている、しかしそれを謀略として断定しなければならない …… あたかも、中核派のシニカルをなぞるかのように。 これだけで、立花隆『中核派 VS 革マル派』を読んだことがある人には、お釣りがくるというものだ。


▼   もはやレーニン主義的機動戦は有効ではない。 グラムシ主義的な多様な市民・社会・文化集団による陣地戦=ヘゲモニー闘争の積み重ねが、革命に至る道 ……… それはマルチチューど(by ネグリ)の行う革命ですら、同様であるという。 社会構築主義に拠る限り、革命は陣地戦以外ありえない。 しかし、グラムシ主義は、マイノリティー問題を進める上で不可欠であるにもかかわらず、革新自治体などの成果をあげたにもかかわらず、結局、何の進展も生まなかったとして退けられてきた。 また、その動きは、多文化主義の擁護という形で、「本質主義」に加担せざるを得なかった。 シャンタル・ムフやジジェクのように「決断主義」に走るのか、「構造改革主義」にとどまるのか。 飛べばいいのではないか。 われわれは飛べるのではないか。 とはいえ、飛べないがゆえに、われわれが生存しているのではないか……  本書の考察は、そこで、閉じられる。


▼   全般的に、かなり貴重な回顧録といえるかもしれない。 日本の新左翼は、ルカーチやサルトルを参照せず、吉本隆明「自立主義」の流儀のためか、国内文献のみだけで論じていたらしい。 太宰治は、戦後共産党に入党していたことがあるらしい。 石原慎太郎人気の秘訣とは、「教養主義=穏健なリベラリズム」に対する切断であり、大正デモクラシーに対するマルクス主義や宮本顕治「敗北の文学」の反復である、という視点も斬新でいい。 また、吉本隆明『転向論』において、「中野重治>宮本顕治」と論じられた中野重治でさえ、「硬い核」たる正史と党から隔たりながらも、転向者としてその「核」に寄り添うことで、狂気から逃れようとした人物である、とされる。 中野重治論としては、一読しておきたい部分だ。 


▼   また、思考方法も、とても楽しい。
 
『「民主か! 独裁か!」と竹内好が問いかけたとき、なぜ誰一人として、「然り、独裁である(プロレタリア)」と返答できなかったのか?』  『連合赤軍事件を見て「武装闘争はいけない」というのはおかしい。 あれは、武装闘争に入る前のいうなればセミナーにおける過労死だ』

団塊おじさんらしい、目からウロコのようなものといえるだろう。 


▼   とはいえ、問題点は、言い出せば、キリがないだろう。 


▼   まず、新左翼は敗北していたように見えるけど、実は勝利していた。 ただし「新自由主義」として、という思考自体が、本人は気の利いたことを言ってるつもりかもしれないが、ただの「強がり」というか、敗北主義的にしか見えない。 さらに、新左翼の「ナルシシズム=ナショナリズム」の転換点として「華青闘」を挙げるのは、一般的に「ナショナリズム」に対する反省と、「左翼=反ナショナリズム」の出発点としては適切だろう。 議論的に新味が乏しいものの、われわれのイメージの由来なのだから。 しかし、そこで「ナルシシズム」は、転換できているのか。 「ナショナリズムを否定できる自己というナルシシズム」という形で、その構図は、温存されたままではないのか。 「ナルシシズム=ナショナリズム」という分析項を導入しているのはいいが、最終的に、議論の足を引っ張っているようにみえなくもない。 ナルシシズムの構造転換、の方が議論がスマートに思える。 


▼   何よりも、結論が意味不明であって、読者は途方に暮れるしかない。 結局、「構造改革主義」を唱えたいのか、「決断主義」を呼びかけているのか、まったく定かではない。 だいたい、ジジェクの「決断主義」は、ムフのそれと同じなのか。 ジジェクのそれは、イデオロギーの自壊を促進させるため、という一面をもっているのだから、ここで「決断主義」を連合赤軍幹部の言説とともに称揚するのは、辻褄があっていないだろう。 真にイデオロギーが実践されたとき、それは自壊するしかないのだから。  また、スラヴォイ・ジジェク、シャンタル・ムフたちの議論を読んでいない左翼からすれば、斬新な議論かもしれないが、読んでいると理論適用の仕方が、正直、うざくて仕方がない。 かつて、小林よしのりの漫画分析に、「俗情との結託」(by 大西巨人)を適用したようなもの。 いかがわしくて仕方がない。  ポスト・モダン以降特有の現象であることを説明する、「内ゲバ」分析は、たいへん面白かったが、それ以外はやりすぎだろう。



▼   右翼・保守言論界の現状は、かつての新左翼と同じ。 その姿は、朝日新聞社刊行『アエラ』先週号で、憐憫マジリのカラカイを受けている惨状である。 まあ、八木秀次の「白い共産主義」という造語には笑うしかないのだが、右翼の方々にとっても、何か裨益するところがあるのではないか。 


▼   とまれ、一読はお勧めしておきたい。 



評価  ★★★☆
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Last updated  Feb 2, 2007 09:18:51 PM
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