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■番組改変 NHKは政治と距離を 番組改変訴訟の控訴審で、東京高裁はNHKの政治的配慮による改変だったと認定した。政治と報道が信頼されるためには、報道機関と政治家が疑惑を抱かれない距離を保たなければならない。 従軍慰安婦問題を扱ったNHK教育テレビの番組は、問題の責任を追及する市民団体が、取材協力の前提として説明を受けた企画内容と異なる内容だった。いったん完成の後、本来は番組制作に無関係な幹部が介入して修正した結果である。 それ自体、異常なうえ、政治家の介入が疑われたが、高裁判決も政治的改変だったことを認めた。 問題の本質はここにある。改変させた幹部は、政治との距離がNHKに対する信頼にかかわることを認識していなかったのではないか。 高裁判決の骨子はこうである。 報道機関には報道の自由、編集の自由があり、一般論としては取材対象の意に必ずそわなければならないものではない。しかし、あらかじめ企画内容を説明し、それを条件として全面協力を得た、このケースの場合は企画を実現する義務があり、実現しなかったときは理由などを説明する責任がある。NHKはいずれも果たさなかった。 報道機関として致命的なのは、放送が当初の企画からかけ離れたものになった理由だ。当時の最高幹部が国会議員の間を番組の事前説明に回り、議員の発言を受けて当たり障りのない番組になるよう現場に改変を指示した、と判決は認定した。 報道、編集の自由を放棄し、政治家に迎合したのである。これは国民に対する背信といえよう。 こんなNHKの受信料支払いを義務化したり、司法の力を借りて強制的に取り立てることに、幅広い支持を得るのは困難だろう。 政治の側も自省、自戒を迫られている。 判決は「NHK幹部が国会議員の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度(そんたく)した」「政治家が一般論として述べた以上に番組に関して具体的な話や示唆をしたとまでは認められない」と慎重な認定をした。 NHKと政治家の日常の関係に照らせば、政治家の発言はもっと具体的で事実上の介入だっただろうことは容易に推察できる。だが、判決通りだとしてもNHK側が無視できなかった事実は重い。政治の側も報道機関との距離を保つべきことを物語っている。 NHK側も政治家も、昨年春に制定した新放送ガイドラインの「放送の自主自律の堅持が信頼の生命線」という条項を肝に銘じるべきだ。(中日新聞) ------------------------------------------------------------- ■NHK 裁かれた政治への弱さ NHKは国会議員らの意図を忖度(そんたく)し、当たり障りのないように番組を改変した。 旧日本軍の慰安婦をめぐるNHK教育テレビの番組について、東京高裁はこう指摘した。そのうえで、判決はNHK側に対し、取材に協力した市民団体へ慰謝料200万円を支払うよう命じた。 NHKは放送の直前に番組を大幅に変えたことを認めながらも、「あくまで自主的に編集した」と主張していた。その主張は通らなかった。 政治家の意向をおしはかって番組を変えるというのでは、自立したジャーナリズムとはとても言えない。NHKは上告したが、高裁の判断は重い。 裁判になっていたのは6年前に放送された番組で、慰安婦問題を裁く市民団体の「民衆法廷」を取り上げたものだ。ところが、兵士の証言や判決の説明が削られた。このため、市民団体側は事前の説明と異なる番組になったとして訴えた。 一審の東京地裁は被告のうち、孫請けの制作会社の責任だけを認めた。 控訴審に入って、NHKと政治家との関係が大きな争点になった。NHK幹部が放送前に自民党衆院議員らと会い、その後、番組が改変された。そうNHKの担当デスクが内部告発をしたからだ。 東京高裁は次のように認定した。 NHK幹部はこの番組がNHK予算案の審議に影響を与えないようにしたいと考え、国会議員らに会った。その際、「番組作りは公正・中立に」と言われた。NHK幹部はその発言を必要以上に重く受け止め、番組に手を加えた。 NHK幹部は番組への強い批判を感じ取ったのだろう。NHKは予算案の承認権を国会に握られている。それが番組改変の動機になったと思われる。 自立した編集は報道機関の生命線だ。政治家への抵抗力を持たなければ、公共放送もその使命を果たせない。 この問題は朝日新聞が05年1月に取り上げ、政治家の発言が圧力となって番組が変わった、と報じた。今回の判決は政治家の介入までは認めるに至らなかったが、NHKの政治的な配慮を厳しく批判したものだ。 朝日新聞の報道に対しては、政治家とNHKから事実関係について反論があった。これを受けて検証を重ねた朝日新聞は一昨年秋、記事の根幹部分は変わらないとしたうえで、不確実な情報が含まれてしまったことを認め、社長が「深く反省する」と表明していた。 取材される側が報道に抱く期待権と編集の自由との関係について判決が指摘したことにも注目したい。判決は編集の自由の大切さを指摘したうえで、政治家の意図をおしはかった今回のケースは「編集権を自ら放棄したものに等しい」と述べ、期待権の侵害を認めた。 編集の自由や報道の自由は民主主義社会の基本だ。取材される側の期待権の拡大解釈を避けるためにも、メディア側の権力からの自立が求められる。 (朝日新聞) ------------------------------------------------------------- 当然の判決で、社説が消える前にメモ。 ゴミ売新聞が、期待権で編集権が制約されるなどと、ギャーギャー喚いていたが、まったくの論外。 読売は、社説において、自社の記者が書く記事について、編集権を剥奪して当然と嘯いている以上、期待権による侵害もヘッタクレもない。 すでにお前たちの下っ端記者は、とっくに剥奪されている。 NHKは、上層部の「責任」ある編集体制で「自己規制」しただけといって、読売は政治家の圧力による改変を否定した。 ならば、上層部の責任ある編集体制とやらが、取材対象の「期待権」による記事改変を、「自己規制」でおこなえばいいだけの話だろう。 何の問題もないはずだ。 政治家からの「圧力」による記事変更は、「自己規制」で処理できるならば、取材対象からの「期待権」も、「自己規制」で処理できるはずである。 期待権によるジャーナリズムの制約とは、「外部からの圧力」を批判してきた奴らがいうべきことであって、少なくとも読売新聞ごときが、ギャーギャー言う資格はない。 ←このブログを応援してくれる方は、クリックして頂ければ幸いです 追伸 おまけ ■ 読売のバカ社説 [NHK番組訴訟]「報道現場への影響が懸念される」 メディアが委縮してしまわないか心配だ。東京地裁に続いて東京高裁が示した報道への「期待権」という新しい考え方に、戸惑わざるを得ない。 いわゆる従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組を巡る訴訟の控訴審判決のことだ。題材となった「女性国際戦犯法廷」を主催し、取材に協力した民間団体が「事前説明と異なる内容に番組が変更された」として、NHKなどに損害賠償を求めていた。 民間団体側は「法廷」のすべてを紹介する番組になると思っていたが、実際には、昭和天皇に責任があるとした「判決」部分などが削除された。このため、裁判では、取材を受けた側の番組内容に対する「期待」が、法的な権利として認められるかどうかが争われた。 これに対し、東京高裁は1審と同様、「取材を受けた側がそうした期待を抱くのもやむを得ない特段の事情があるときは、番組制作者の編集の自由も一定の制約を受ける」との判断を示し、NHKに賠償を命じたのである。 高裁が「編集の自由」を軽く考えているわけではない。「編集の自由は取材の自由、報道の自由の帰結として、憲法上最も尊重される権利」で「不当に制限されてはならない」としている。 また、「期待権」との関係を考えるうえで、ニュース番組を、今回のようなドキュメンタリー番組や教養番組とは区別したりもしている。 ただ、懸念されるのは、編集の自由の制約に関する司法判断が拡大解釈されて、独り歩きしないかということだ。 報道の現場では、番組や記事が取材相手の意に沿わないものになることは、しばしばある。ドキュメンタリー番組や新聞の連載企画などでも、より良質なものにしようと、編集幹部が手を入れたり、削ったりするのは通常の作業手順だ。 「編集権」の中の当然の行為だが、それすら、「期待権」を侵害するものとして否定されるのだろうか。2審では「期待権」の範囲がNHK本体にまで拡大された。そのため、報道機関全体に新たな義務が課せられる恐れが強まった。 この訴訟では、もう一つの焦点があった。番組制作に政治家の“圧力”があったのかどうかだ。朝日新聞が繰り返し介入を報じ、NHKが否定したことで、大きな論争に発展していた。 これについて、今回の判決は「政治家らが具体的な話や示唆をしたとは認められない」との見方を明確に示した。 NHKは判決を不服として、即座に上告した。「期待権」について、最高裁はどう考えるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 2, 2007 09:46:36 PM
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