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テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95)
カテゴリ:哲学・思想・文学・科学
![]() ▼ 小熊英二『民主と愛国』に関する星の数ほどあるレビューの中でも、あまりの最低さに吹き出しそうになったものは、読売新聞編集委員が執筆したものをおいて他にはない。 曰く、「保守思想の動向がほとんど触れられていない」 ▼ 保守思想家といえば、小林秀雄、江藤淳、福田和也……数だけは、一応、あげることができるだろう。しかし、彼らには、いったいどのような違いがあるというのだろうか。 まあ、「目的」なき所に、歴史叙述など生まれようもないわけで、ほとんどイチャモンだよなー、と思った次第。 ▼ それはそうと、『月刊 仲正昌樹』状態と化して、年間10冊以上も本を出す、いささか粗製濫造気味の仲正昌樹氏。 今回の本は、ポストモダン思想の解説書だ。 なかなか良い本を出されている。 ▼ 1980年代、脱体系化・脱中心化を図る思想として、一世を風靡した現代思想。 学問間の相互乗り入れと脱アカデミズムも実践は、なかなか回答を出さないそのスタイルもあって、不真面目な思想とおもわれがちであった。 また近年、価値観からの解放、ライフスタイルの多様化などのポストモダン的状況に疲れ、経済的条件の悪化もあいまって、現代思想は急速に流行らなくなってしまった。 今では、何それ?食べられるの?てな感じである。 そこで、日本の戦後思想を俯瞰した上で、現代思想の何を後世の遺産として残すべきか、考えてみたのだという。 ▼ 1章は、「空回りしたマルクス主義」。 ドイツ・フランクフルト学派とは違って日本のマルクス主義は、倒すべき敵であるはずのアメリカから、学問の自由など、戦後民主主義が与えられたという事実について、深く考えることはなかった。 そのため、資本主義のイデオロギーを最後まで批判しきれるのか。 批判しているつもりでイデオロギーの再生産に寄与してはいないか?について、思考することがなかった。 「マルクス主義」を掲げたまま、ラジカルではないという意味しか持たぬ「市民派」の仮面を使い分け、マルクス主義の内容が極めて曖昧になった。 高度成長は、マルクス主義革命を何の必然性のないものにかえ、職能的利害集団でしかない保守の前に空転をくりかえし、マルクス主義を空疎化させていく。 唯一、丸山真男だけは、西欧近代そのものを批判的にとらえ、疎外論的な問題関心も持っていたが、とりあえず西欧近代に適応することを説いた。 また、「理論の物神化」についても、西欧近代に内在する矛盾とは捉えず、日本における近代的思考の未成熟さにおいてしまった。 ▼ 第2章は「大衆社会のサヨク思想」。 「1968年」以降、世界では、旧来の2項対立図式で世界を描ききることは困難であるという哲学的認識が浸透して、カウンターカルチャーを活用して大衆に浸透しようとする動きが広がっていった。 しかし、日本の新左翼は、「美」によって資本主義的日常の中で見失った「真の自己」「主体性」を取り戻すことは考えても、「美」を通して見える「近代的主体の終焉」には関心を持たなかった。 彼らは「革命=目的=終焉」そのものを美学主義に表象する、「黙示録的革命主義」に走ってしまう。 広松渉は、ルカーチ以降、「疎外」「物象化(=呪物崇拝)」を同じようなものとしていたのに対して、すべての人々を拘束する「物象化=共同主観性」にこそ、シフトするべきだ、と説き、ポストモダンとの橋渡しをおこなう。 ▼ 第3章と第4章は、「ポストモダンの社会的条件」「近代知の限界」である。 大量消費社会の到来は、消費に絶えずいざなうべく、新たな差異=モノ=記号の産出による幻惑作用 ――― ベンヤミンのファンタスマゴリー(幻灯)論、「主体(精神)-客体(物質)」の対立において、主体を無意識的に規定にしているとする、記号論的パラダイム(ボードリヤール)への転換 ――― の支配する社会の到来である。 ただ、マルクス主義が象徴する近代哲学への挑戦であったポストモダン思想は、「構造主義VSマルクス主義」の構図 ――― 主体を無意識レベルで規定する「構造」を摘出して普遍的進歩史観を相対化する構造主義に対して、歴史の中での主体的な実践を重視するサルトル流の実存主義的マルクス主義 ――― が理解されず、1970年代まで日本では、「おフランスな思想」としての受容にとどまっていた。 文化人類学・精神分析という「人間を前提としない」領域から始まった動きは、「生権力」(フーコー)、構造主義の「構造」がなぜ発見されうるのか、その「構造主義」(レヴィ・ストロース、フーコー)の構造そのものを批判した、ポスト構造主義(デリダ)へと進む ▼ 第5章と第6章は、「日本版『現代思想』の誕生」と「『ニューアカデミズム』の広がり」である。 マルクス主義者が居座った人文系アカデミズムに一撃を与えた人として、2名が採りあげられている。 バタイユを援用して「蕩尽する人間観」(人間もその対象内)へパラダイムシフトさせた栗本慎一郎。 蕩尽は象徴秩序が機能する社会でのみ可能。 「熱い社会」では、日常生活そのものが「蕩尽」化し、絶えず新しい差異が産出されて崩壊を先延ばししているだけにすぎない。 われわれは、エディプスの三角形が人々に強いるパラノ・ドライブから、「スキゾ・キッズ」として「逃走」しなければならない ――― いうまでもなく、浅田彰である。 とくに、文化人類学者の系譜が重要らしい。 山口昌男もそうだが、とくに中沢新一。 宗教的信念と、検証可能な合理的知識との区別を前提とした近代知の限界に挑戦する彼の試みは、東大駒場「中沢事件」を引き起こしてしまう。 ▼ 第7章と第8章は、「なぜ『現代思想』は『終焉』したのか」「カンタン化する『現代思想』」という表題がついている。 終焉したのは、フランス現代思想の中心が次々と死んでしまい、「近代の限界」の意義を認めない、英米の分析哲学にもとづく正義論・責任論にシフトしたからであるとされる。 また、唯一残された観のあるカルチュラル・スタディーズも、文化政治に限定されていて、「近代」そのものを否定していないため、いっそう現代思想は死んだ観がある。 また、不況による社会不安で、ベタな危機意識が復活。 そんな中で、「郵便的不安」は確実に増殖し、もはや「コミュニケーションを通した普遍的な合意に到達するのは無意味」というポストモダン的状況がますます強まってしまった。 ▼ そこに、ポストモダン左派がマルクス主義の退潮を埋めるように、進出しているのが現状であるという。 かれらは「ポストモダン的」であっても、「近代的思考枠組ではないもの」としての現代思想、という特色を持っているとは言い難い。 今の思想業界は、1970年代の「左右対決」に逆戻りした観があって、左の思想家のスター化&「水戸黄門化」&「知的権威低下」と、叩く相手がわからない右の迷走が、いっそう「カンタン化」スパイラルを促進させている。 あろうことか、どちらも「大きな物語」を作りはじめる始末。 今こそ、世界を切り分ける「道具」としての現代思想は有効である、として本書は終わる。 ▼ 保守の方が革新よりも新しい。 吉本隆明は、階級意識に還元できない、「共同幻想」の強さを指摘して、新左翼の教祖どころか、マルクス主義者ですらない。 「サルトル=レヴィ・ストロース論争」。 2項対立図式を免れて、純粋に真実を移し出せるエクリチュールは存在しない。 法も道徳も、「蕩尽」するために存在している。 面白い議論がどんどん提起されていて、飽きることはない。 ▼ ただ、問題はあまりにも多い。 ▼ 仲正昌樹の著作だけでなく、東浩紀にしてもいえるが、どうして哲学とか社会学を語る奴は、「歴史」をないがしろにするのだろう。 とかく、自分の知っている時代(=パラダイム)を特権化しがちな奴が多すぎる。 私的領域におけるエディプス的主体の再生産と、公的領域における労働主体=市民の再生産がうまく合致したため、資本主義を壊すことが不可能になったなどは、もろに「カンタン化」された議論としかいいようがない。 今現在、進行している、「脱社会化」「脱制度化」の現状をどうみるつもりなのか。 そもそも、仕事と家庭の性別分業が日本で成立したのは、団塊の世代以降、というのは常識に類する話だ。 近代日本においては、エディプス的主体や近代的な労働主体の形成は、1960年代以降にしか当てはまらないのであって、ただのバカ親父の妄言に過ぎまい。 ▼ さらに、何かといえば、得意気に持ち出す、「ポストモダンの左旋回」も、かなり疑問な概念である。 実際、柄谷行人以外、ポストモダンな人が旋回した例は、どこにも挙げられていない。 高橋哲哉にしても、もともと左の人ではないのか。 また現代思想は、本当にフランスから「直輸入」されたものとするなら、どうして日本では、「ラカン派精神分析」がそんなに影響力を持っていないのか。 ポストモダンの左旋回は、フランスではなくアメリカの影響とされるが、本当は「フランス現代思想もアメリカ経由で密輸されたもの」のような気がするのは僕だけだろうか。 実際、社会学では、1980年代、フーコーとアーレントが全盛であったが、それはアメリカで英訳されたのが、1980年代だったということと密接な関係がある(日本では70年代に翻訳されている)。 ▼ 何よりも、本書の致命的な弱点は、思想が押しなべて「つまらない」ものになっていることであろう。 頭の良すぎる人が、さらさらと整理してくれるため、一発で分かることは確かなのだが、戦後日本思想史の流れを知らなかった人は、こんなにつまらない思想しかなかったのか、と呆れかえるしかないだろう。 むろん、面白そうな人なのになぜか除外されている人も目立つ。 宇野弘蔵や大西巨人などは、その典型だ。 筆者が救出したいはずのポストモダン思想も、仲正昌樹の魔の手から逃れることができていない。 救い出して蘇らせたいポストモダンの精神は、「のりつつしらけ、しらけつつのること」だ、と言われて、ポストモダン思想を学びたい、などと思う奴がどこにいるのだろう。 そんな思想なら死んでもよい、と思うのが普通ではないか? ▼ 仲正の書くモノは、とかく相手に内在しないため、異様に見通しはよくても、つまらなくなることが多い。 そんなことを百も承知、という人にすすめたい。 評価 ★★★☆ 価格: ¥ 1,071 (税込) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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