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テーマ:ニュース(100552)
カテゴリ:経済
![]() ▼ みたみた?本日の番組紹介欄。 NHK総合で、こんなことやるらしいの。 本当に大丈夫かしら。 次回の『その時歴史が動いた』は… 鉄は国家なり ~技術立国 日本のあけぼの~ 放送日 平成19年2月21日 (水) 22:00~22:43 総合 ゲスト 佐木 隆三(さき・りゅうぞう)さん(作家) 番 組 内 容 その時 … 昭和5(1930)年1月 出来事 … 鉄道レールの輸入が終わりすべて国産化された イギリス、ドイツ、アメリカなど、鉄を制した国が近代国家として胸を張れる時代に、明治政府は国家の威信を賭けて福岡県八幡村に官営製鉄所を建設する。しかし当初の製鉄技術は海外の設備と技術者をそのまま持ってきた「鉢植え」の技術。日本の原料や燃料に合わず、日本人技術者にも使いこなすことができなかった。巨費を投じた溶鉱炉は鉄を作れないまま、停止されてしまう。このままでは日本は文明国の仲間入りができない…。その時立ち上がったのが、鉄の技術者・野呂景義とその弟子たちだった。 彼らは徹底した現場へのこだわりと調査で、海外から移入した技術を日本の風土に合わせて改良・改善していく。やがてようやく日本の近代製鉄は軌道にのり、課題であった鉄道レール作りが始まる。しかし野呂亡き後、国産レールの破損事故が相次ぐ。野呂の教え子たちは技術者としてのプライドを賭けて、鉄とレールの質の向上に心血を注いでいく。そしてついに日本は借り物だった製鉄技術を我が物とした。技術者たちが鉄とレールの国産化に挑む道のりを通して、のちの技術立国・日本につながる日本オリジナルの「技術力」誕生のドラマを描く。 ▼ 「“あるある大辞典”納豆捏造事件」のNHK版、っぽいわよねー。 番組見ていないうちに語っても仕方がないんだけど、 いったい、何がやりたいのかしら。 ▼ 銑鋼一貫生産を目指した官営八幡製鉄所。 でも、燐の含有量が低い鉄鉱石にめぐまれず、高炉から良質の銑鉄(原料銑)が生産できなかったわ。 だから結局、八幡製鉄所にあったベッセマー転炉は、1927年に廃止に追いこまれてしまう。 これによって、酸性鋼 ――― 燐・硫黄がない鉄鉱石に限られるけれど、機械や兵器生産にむいた良質の鍛鋼・鋳鋼ができる ――― の大量生産技術は、日本から消滅してしまうのよ。 日本では「低珪素銑 塩基性鋼」 ――― 燐/硫黄はたくさんあってもいいけど、珪素があってはダメ、軟鋼だから圧延鋼材・高張力鋼に向く ――― のみになってしまい、それすらも一貫生産体制を築けなかった。 ▼ となると、銑鉄や屑鉄は、輸入に頼らざるをえなくなってしまうわ。 「スウェーデン鋼」とか聞いたことないかしら? 日本は銑鉄は、酸性銑をスウェーデンやイギリス、低珪素銑をインドから輸入せざるをえなかったのね。 この銑鉄部門の低生産性は、「一貫生産」ではない、単独でマルチン平炉による小規模「塩基性鋼」部門の出現とあいまって、戦前の日本製鉄業の足かせになるわ。 ▼ とにかく、銑鉄生産が弱いのに、鋼鉄生産だけは盛んなの。 武器にしても、鉄道レールにしても、国家が欲しがれば欲しがるほど、銑鉄生産技術の弱さが、どうしても致命的欠陥になってしまうのよね。 ▼ たとえば1941年、「ABCD包囲網」で、日本が追い詰められたときを思い出してみて。 その中に石油輸入だけじゃなく、「屑鉄の輸入ができなくなった」ことを記憶している方、いるのではないかしら。 何の意味があるのか、分からなかった人、絶対いるでしょう。 ▼ 実は、タネを明かすと、これが原因なのよ。 日本では、銑鋼一貫生産は結局、完成できなかったわ。 だから製鋼業者は、屑鉄と銑鉄を外国から買って、それらをまぜて「塩基性平炉」に入れて、鋼鉄生産していたの。 日本鋼管とか神戸製鋼とは、そんな業者なのね。 ▼ 当然、1930年1月には、本来「何もおきていない」し「動いても」いないのよ。 というか、1930年頃の日本の銑鉄生産量は、たしかアメリカの2~3%よ。 借り物からの脱却、ってどうみてもインチキだわ。 だいたい、鉄の国産化は達成されていません。 あきらかに捏造でしょう。 ありもしないものをどうやって「動いた」としてデッチあげるのか。 これくらいしか、楽しむ方法が、ないのよねー。 ▼ いったい、どんな事例をあげて動いたことにするのかしら。 何個か、考えられないことはないわね。 ▼ 番組案内には、野呂景義の弟子たちの苦労なんてあるわ。 それなら、のちに日本鋼管の社長にもなった、今泉嘉一郎の「日式トマス転炉」 かしら。 たしかにオリジナルなものよ。 でも、これって、ドイツ・ヘルデ製鉄から直輸入したトマス転炉の改良版だわ。 おまけに、日式トマス転炉を作っても、上流部門 ――― 原料銑(低珪素銑)生産部門 ――― にますます負荷をかけるだけよ。 それでなくても日本では、低珪素銑だってまともに作れなくて、鋳物銑になっちゃうというのに。 それに,日本鋼管の日式トマス転炉の稼動は、1938年から。 とても、1930年1月の「そのとき」にはならないわよね。 ▼ それとも平川良彦を中心とした、低珪素銑製造方法の改革をあげるつもりかしら。 でも、どうして鉄道レールといった鋼材が日本でできなかったのかといえば、たんに技術が未熟だったからにすぎないわ。 ▼ だいたい、低燐で酸性銑をつくるベッセマー転炉なのに、それにあわない中国の鉄鉱石で銑鉄をつくろうとしたのよ? これですめば良かったけれど、八幡製鉄所は、ベッセマー転炉で消費しきれない銑鉄を、塩基性平炉にいれて鋼鉄生産していたわ。 できた鋼材は、どんなものになるか、想像付くでしょう? 酸性鋼でも塩基性鋼でもない、ただの「不良品」よ。 現実は、1924年頃まで、低珪素銑と低燐銑の区別を知らなかっただけなのよ。 ひどい出来のため、鉄道省も陸海軍も困り果てたわ。 だから、軍艦や兵器でさえ、銑鉄をわざわざ輸入して作らなければならなかったのよ。 1924年以降、八幡製鉄所では、低珪素銑・塩基性平炉鋼の組み合わせによる、銑鋼一貫体制が完成するけど、平川良彦の研究は、この路線の上にのって、進められたものなのね。 ▼ もともと、野呂景義の弟子である平川良彦は、高炉操業が手探りの状況であった1910年代、「鎔解層」なる概念を提示した人なの。 とくに、鉱石とコークスの配合方法をかえることで、「生鉱降り」現象をなくして、有名になった技術者。 たしかに、面白い研究をしているのよね。 それも大規模な実験装置をわざわざ作って何度も試験を繰り返す、今の科学そのものを感じさせるやり方で。 ▼ 八幡製鉄の銑鉄部門は、彼の手によって、1920年代を通して、高炉の操業方法がどんどん改善されていくわ。 高炉冷却水の海水使用で、鉛管を使うことを余儀なくされる羽口を、「アルミニウム製」にしたりね。 アメリカやドイツでは、1000トンの銑鉄が生産できる高炉が主流の時代に、200トン規模の高炉しか作れなかったことを除けば、かなりのことをやっている技術者なのね。 ▼ 一番有名なのは、「鎔解層アーチ説」と、それによる適切な高炉の形の≪原理的解明≫ね。 ▼ 欧米では、「朝顔の位置を低く、その角度を大きく、湯溜の径を大きく」という、高炉建設の3条件は、広く知られていたわ。 しかし、経験で練り上げられたもので、理論的背景が分かっていなかったのよ。 欧米と日本は、鉄鉱石の品位、コークスの灰分と硬度、操業方法がちがう。 だから、日本の技術者は、どのようにするべきか、分からなかったのね。 それを日本でも適用・援用できるように、原理的裏付けを明らかにした人なのよ。 かれは、日本における「低珪素銑製造法」を明らかにして、鉱石・コークスはどのようなものを使い、どのように装入したらいいか、適切な送風方法・温度・圧力、などを詳らかにしたわ。 職工の勘や技能ではなく、理論的操業方法を明快にして、完成させた人なの。 平川良彦は、良い技術者だわ。 会社が与えた状況の中で、最高の選択肢をえらびだし、それを理論化したわけだから。 ▼ ただ、これをもって「歴史が動いた」というのは、明らかに行きすぎよね。 ▼ だって、経験的に知られていたことで、技術自体、かれのオリジナルでもなんでもないわ。 それに、平川良彦の理論にもとづいて八幡製鉄所の銑鉄生産が始まるのは、1930年の2月。 平川理論採用なんかよりも、絶対、八幡製鉄の銑鋼一貫体制の建設の方が重要でしょうに。 やっぱり平川良彦でもないのかしら。 ▼ それにしても、NHKの番組案内は、読めば読むほどひどいしろものよね。 近代技術の定着は、「日本の風土」が阻害していた訳じゃないわ。 そもそも科学の問題じゃない。 だいたい、競争力のある低珪素銑鉄の大量生産は、戦後にならないと実現しませんよ。 どれをとっても捏造の臭いがするのよね。 どうみても、針小棒大にされそうよ。 ▼ どのようなお話になるか、確かめてみなくちゃ。 みんなも、変な話になってるかもしれないので、確認して欲しいわ! ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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