ココロの森

2008/04/18(金)01:28

「答え」と「正解」

散文・つれづれ(92)

作家/田口ランディさんの今日のブログの記事にとても興味深い話があった。 中学を受験したいと言い出した娘さんにランディさんが 「受験してもいいけれど、受験勉強してほしくない」 という話で、何故かというと 「ああいう勉強の仕方を覚えると、将来、なんでも答えを求める人間になりそうで怖い」 からだそうだ。 受験勉強の是非を論じても、 現状の社会ではこれは避けて通れない問題なのでとりあえず置いておくとして、 「なんでも答えを求める人間」が増えてきているのは事実だと思う。 「答え」というよりは「正解」だ。 みんなこぞって「正解」を求めている。 「正解」とは、今の社会の価値観で言えば、おそらく「成功する」ことだろう。 でも、それが果たして本当に『正解』なのだろうか。 テストの問題に対する答えは、大抵 ◯とX、正解か不正解しかない。 その考え方でいえば、人生には「成功」と「失敗」があり 失敗したら落第なのだ。 でも、人生のあらゆる問題に対する「答え」は、大抵、正解も不正解もない。 むしろ、そのどちらでもない事のほうが圧倒的に多い。 例えば、恋人が浮気をしたとして 「そんな人とは別れて、別の人と付き合う」という答えもあるし 「あやまちを許し、元通り仲良く付き合う」という答えもあるし 「一旦分かれて様子を見て、反省していたらよりを戻す」という答えもあるし、 「だったら自分も浮気してやる」という答えもある。 どれが正解でもないし、どれが不正解でもない。 友達全員に「そんなひととは別れなさい」と言われたとしても 自分自身が「相手を許そう」と思うのならば、そう生きるしかない。 自分で考えて、自分で選びとる。 選ぶからには、自分の選択に責任を持つ。 たとえ、自分で選んだものではなくても 自分自身の「人生」を 他者のせいにしない。結果を引き受ける。 結果を引き受けて、ただ生きる。 それが、「ほんとうの正解」なのだろう。 人生には たくさんのさまざまなハードルが待ち受けているけれど 「『正解』を求める」生き方というのは そのハードルを跳べたら成功、飛べなかったら失敗、 というふたとおりの考え方しかできない気がする。 飛べなければ、飛ばない、という選択肢もある。 脇をすり抜ける、という手もある。 ハードル自体を脇にどけてしまうことも出来る。 手で倒して、またぐ事も出来る。 「競技」(他の誰かと競う事)であれば、これらは失格だけれども 「人生」(誰かと共に歩む事)であれば、これらはユニークな個性のひとつだ。 あらゆる物事は、白か黒かだけではない。 あらゆる事象は、善と悪だけでは量れない。 全ての対称となるものは、表裏一体。 善悪も、男女も、生死も、何もかも。 少しだけ、物の見方を変えたなら 今までとは全く違った世界が見えて来る。

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