ココロの森

2008/12/21(日)11:42

『北緯14度』絲山秋子

読書のココロ(エッセイ・その他)(116)

【内容情報】(「BOOK」データベースより) 30年の時を越え、やっと神様に会える! 西アフリカ・セネガルへの魂の旅。 友達と出会うこと、自分の居場所を見つけること、言葉の本当の意味を探すこと、 大切なことを考え続けた長篇紀行。 約二ヶ月に渡る滞在をまとめたセネガル紀行文。 絲山さんにとって、神様のような存在であるという パーカッショニストのドゥドゥ・ンジャエ・ローズ氏に会いに行く、 ただそれだけがために長時間フライトの苦行にも耐え (高所恐怖ではなく、ヘビースモーカーなので禁煙が辛い) 遠い遠い西アフリカへと旅立ったのだ。  《参考》  ドゥドゥ氏の演奏映像、こちら 作家の役得とも思えるけれど、 殆ど予備知識もない地球の裏側に2ヶ月も放り出されるのはやっぱり辛いだろう。 たとえ書き下ろし本のネタ探しの旅であろうとも。 内容は、至ってラフ。  セネガルの歴史だとか、地理的状況だとか、宗教、内戦、、、 そんなことには殆ど全く触れておらず、 かわりに、絲山さんが実際見て触れた風景や人(日本人とセネガル人)。 それらについての自身の心情と考察などが綴られている。 ぶっきらぼうでガサツな言い回しながらも、 海辺でのんびり煙草を吸いながら見た風景とか、 笑顔の素敵な行商の少年とか、 サイサイ(下ネタ)で盛り上がる現地人との会話など その場の雰囲気というよりも「熱」のようなものを感じられるのはさすが。 地図上でどこにあるのかも曖昧で幻のような存在だったセネガルが 徐々に日本よりもリアルに、「生」に感じる。 まるで現地からリアル発信されるブログを読んでいるみたいだ。 滞在記の合間合間に ムッシュ・コンプロネ(どうやら絲山さんの恋人らしい)に宛てたメールを挟んであるから 尚更だ。 絲山さんのエッセイはどれもこれも「男前」、 言い換えるなら「チャレンジャー」だ。 序盤から 「内線地帯もある」という国にアーミールックで現れた同行の編集者を内心罵倒しつつ 歯に衣着せぬ「絲山節」全開で突っ走ったかと思えば 外務省の「渡航安全情報」で 「渡航の延期をご検討下さい」と書かれているような所にだって行っちゃう。 首都ダカールにホテルをとってはいるけれど、 群馬を愛してやまず東京暮らしができない絲山さんは やっぱりダカールも息苦しくて ガルディアンと呼ばれるボディガードのソレイマンと共にどこにでもいっちゃうのだ。 だって、その情報を外務省に流しているのは セネガルで入り浸っているコーディネーター宅の上に住んでいる人が流しているんだもの。 そして、その人自身 「危険」と言われているところには足を踏み入れたことなんて全然なくて それどころかコーディネーターさんのあやふやな情報を そっくりそのまま外務省に伝えてるだけなんだもの。 すっごくアバウトでいい加減だなあと思うけれど でもそんな所がセネガルらしい。 そんなアバウトなお国柄だからこそ、 人間無形文化財でもある人物にスイとお目通りが叶ってしまったりもするのだろう。 実際あまりにもあっさりしすぎるほど、 主要なはずのこのシーンに割かれたページ数は少ない。 けれど、「神様」を目の前にした絲山さんの心の震えは その短い文章の中からじゅうぶん伝わって来る。 - * - * - * -  その表現の豊かさ、音の深さ、高揚感は、  やはり言葉ではうまく言い表せませんが、  心にごちそうをたっぷりいただいて、  そしてつまらない全てのことから解放された気分でした。  太鼓であれ、絵画であれ、小説であれ、  すぐれた芸術というものは、人の心を釘付けにして、  そして誰でもないただの命にしてしまうものだと思いました。              ( 本書より抜粋 ) - * - * - * - 18年ぶりのフランス語に悪戦苦闘しつつ それでも絲山さんは『過度の適応性』という特技(というより哀しい性)で 滞在2年の女医先生や セネガルに骨を埋める覚悟のコーディネーターでもできなかったことを たったひと月程で『超えて』みせる。 セネガル人を召使いとしか思っていない女医や 「この国の男たちは危険だから」と思い込んでいるガイドや 「ありがとう」という現地語すら話そうとしない大使館夫人。 外国にいるのに日本人同士で固まって セネガルをいつまでたっても「自分の街」にしようとしない人々には 決して超えられない『壁』がある。 それを絲山さんは哀しく思う。 ご飯も旨い、人もいい、そんなセネガルに 「知り合いが増えて、ニュースも増えた」はずの絲山さんが、 「けれどそれを全部書いてしまいたくない」と 帰国が迫るにつれ、思うようになって行くのも印象的だ。 - * - * - * - 言葉を生業としている私が、 言葉じゃないんだ、ということを学んだのはとても大きいと思います。 短い単語、平凡な言葉の何と雄弁なことか。 (中略) 逆に、流暢な言葉は多くのものを壊してしまう。 日本人と話すたびに、いろいろなことが壊れて行くのを感じるのです。                 ( 本書より抜粋 ) - * - * - * - これは、私が文章を書くたびに いつも思うこと。 言葉を繋げば繋ぐ程、書きたいことから遠ざかる。 きっと絲山さんのココロのなかには ここに書き記したことより数百倍煌めく思い出が刻み込まれているのだろう。 その思いの深さが、「書かない」ことによってより印象づけられる。 「なぜ馬は群れるのに牛はばらんばらんに歩いているんですか」 という絲山さんの問いに対し、獣医のおっちゃんが 「強い奴はむれなくていい。牛ってのは四つも胃があるから強いんだ」 と答える場面も印象的だった。 絲山さんのエッセイにはいつも美味しそうな食べ物が登場するけれど 今回の「セネ飯」も美味しそうな丼ものがたくさん出て来て食べたくなる。 「食」は、あらゆるものの基本だな、 生きることに直結するんだな、と 改めて気づかされるようなシーンもたくさんあった。

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