『寄る辺なき時代の希望』(第二章)/ 田口ランディ
昨日の日記では 第一章「老いという希望」について書きましたが今日は引き続き、第二章「べてるの家という希望」についてです。(さすがに、第三、四章の 核、水俣病については テーマが重すぎますし、4日連続でこの手の日記はツライので割愛します)「べてるの家」とはなにか?本文から 説明箇所を引用すると「浦河べてるの家」というのは、精神障害をかかえた人たちの有限会社・社会福祉法人の名称である。北海道の浦河町で 共同作業所、共同住居、通所授産所、グループホームなどを運営しており、主に精神障害をかかえた約150人がさまざまな活動を行っている。「弱さを絆に」「三度のメシよりミーティング」「昆布も売ります、ビョーキも売ります」「安心してサボれる会社づくり」「精神病で町おこし」 など、ダジャレのような言葉をキャッチフレーズに、年商一億円を稼ぎ出し、年間の見学者2000人。いまや過疎の町を支える一大地場産業となっている。のだそうだ。-*-*-*-*-*-*-べてるの家では「ありのままを肯定」する。つまり「働けない人」も「アルコールに依存してしまう人」も、そのまま肯定される。幻覚も幻聴も、その人に属するすべてのことが肯定される。だから、なるべくありのままの自分を表現できるように皆で話し合う。とにかく話し合う。なにかにつけて、「じゃあ、ミーティングしようか」である。日常的にお互いの悩みや苦しみをミーティングしている。こんなに哲学的な人生の悩みを毎日話し合っている人たちはめったにいないのではないか…と、べてるに行ってみて思った。-------人はそれぞれに自分に合った場所を、自分の力で作ることができる。たぶん誰にでもできる。べてるは行政が援助して出来たわけではない。精神病院から退院して働くあてのない患者さんたちが自然発生的に集ってできた場所だ。お役人が手伝ったわけでも、お金持ちが援助したわけでもない。とことん弱者であるから、自分で作るしかなかった。あまりにも弱者であるから、逆に、捨てるものがなにもないところから出発した。なにしろ社会から全否定されているわけだから、自分たちで徹底的に自己肯定していくしかなかった。他に道がなかった。どん底だった。それが、べてるの家の凄みであり、特徴だ。いまここにあることの完全肯定。半端でなく開き直っているのだ。弱いことがダメなら弱さを絆にしよう。働けないならサボれる会社をつくろう。人がマイナスだと思うことをすべてプラスとして肯定する。もうヤケクソにすら見える。笑ってしまおう。だからべてるには笑いがたえない。ビョーキは宝、幻覚妄想は財産、幻聴はお友達だ。そのようにして現状を肯定し、生きる場所は自分たちが作る。ダメであたりまえ、うまくいったらめっけもん。しょせん、どん底なのだから、なんとかなると信じてしまえ。ダメでもともと。がんばりゃよくなるとは考えない。そもそも諦めているから現状を笑える。人間なんて、そう簡単に進歩成長するもんじゃない、ビョーキと共存、ビョーキに学ぶ。幻聴は心の友達だ。自分の味方は自分、失敗するのがあたりまえ、すべて順調!……である。-------すべての人が自分は唯一無二の自分であると自覚し、他者の評価に頼らずとも自分の弱さもありのままに表現し、自らの堕落を認めれば、他者を蔑むこともない。自分に奢ることもない。人間としての権利は、与えるものでも授かるものでもなくなる。存在するあらゆる生命にとって自明のものとなる。そんなのは、理想論だと思っていた。ありえない。きれいごとだ。でも、べてるの家には、その萌芽があるのだ。 ( 田口ランディ『寄る辺なき時代の希望』 第二章「べてるの家いう希望」より) -*-*-*-*-*-*-今の社会のように、「もっと頑張れ」「動けるなら働け」「生涯現役」「なまけることはけしからん」と常に上昇し続けようとする風潮に、常々疑問を持っていた私にはこの、『降りていく生き方』が肯定される べてるの社会はなかなかに魅力的に感じた。そう。こういう生き方が認められたっていいじゃないか。「頑張る生き方」が悪くて、「降りる生き方」だけを肯定しているわけではない。人の価値観はそれぞれなのに「頑張る生き方」だけが素晴らしくて「降りる生き方」を否定し蔑む社会の風潮に問題があるように思うのだ。他人の何倍も働いたり頑張ったりすることで、人生を苦労して切り開いていく人もいる。他者を相手に頑張ることは それはそれで大変だと思う。でも、自分を相手に頑張ることは 他者を相手に頑張ることと違って、結果が見えない。本人は、死に物狂いで頑張っていても、それでお金が稼げるわけでも なんでもない。己の病と闘い、周囲の偏見とも戦い、自分では十二分に頑張っているつもりでも、他者からは尚、「元気そうなのになまけている」ようにみられる。社会で暮らす大多数の人々が持っている「上昇志向」の価値観を「ありのままで充分」とする少数派の人たちに強要し、内面的にもうじゅうぶん頑張っているひとたちに 更に頑張れと強制するのは、やっぱりなんだか違う気がする。-*-*-*-*-*-*-いまの日本社会が「堕落を自覚していない人間のニーズのもとに生まれた社会」であるとすれば、べてるは、「堕落を自覚している人間のニーズのもとに生まれた社会」である。この二つは絶対に違う。私は堕落を自覚できなかった。自分よりも弱いものに依存して、自分をアイデンティファイしてきた。自分の堕落を見ないために、堕落した兄が必要だったのだ。私は、自らの堕落を自覚しようと思う。苦しいけれど、この救いがたい依存症に立ち向かおうと決意している。それも、べてると出会ったおかげだ。堕落を自覚したとき、私のニーズはどう変わるだろう。私はどんな国を望むだろう。たぶん、いまとは違う社会を望むと思う。-*-*-*-*-*-*- 寄る辺なき時代の希望 / 田口ランディ