2010/07/24(土)12:09
失われた涼しさを求めて
ペルト / ミゼレーレ ヒリヤード・アンサンブル(限定盤) 【LP】
注:こちらで販売されているのは、LPレコードです。
エアコンはまだ直らない。下界はひどい(というほどでもないがそこそこの)暑さである。
こんなときに、韓流の電子音はさすがに聞いていられない。元気過ぎてね。
だから私は、夫がオーディオ喫茶用に準備していたカバンからまた2枚、怪しげなCDを取り出したのでした。(昨日の話)
CDをプレイヤーにセットして、ソファに寝そべり音が流れてくるのを聴いていた。最初は静かなコーラスが、次第にヴォリュームを増し、折り重なり、たたみ掛けるような、音の塊となったとき、私の脳裏にある絵画の映像が横切った。
その絵は、数年前、義妹の結婚式のときに訪ねたミュンヘンで、伯父夫婦と立ち寄ったアルテ・ピナコテークで出会った、リューベンスの『最後の審判』である。
リューベンス(ルーベンス)といえば、フランダースの犬で有名な「キリストの昇架」と「キリストの降架」のイメージが強い。
しかし、これらの作品が子供の頃の私達に与えたのキリスト像(=天使)印象とは対称的に、巨大な画面上方の審判の場面の下方、私達の目線の直前には、肉感的なほぼ裸体の人物が、それを連れ去ろうとする鬼達と共に描かれている。
肉体の肌色と、鬼から逃げるすべを持たない運命の惨さが、否が応でも目に飛び込んでくるのだが、不思議と恐怖だけではない何か、哀れみや悲しさや、生の残り香に彩られた不思議な画だった。
今朝、この記事を書こうとして、ヘルマン・コーネン(訳:長木誠司)によって書かれたライナーノートを眺めていたら、
『<ヨハネ受難曲>と<スターバト・マーテル>といった作品の系列上に、人間の赤裸々な実存を音化したような<ミゼレーレ>の創作は始まっている』
と、書かれていたことを知り、とても驚いた。(普段私は、ライナーをチェックする人ではないので、今朝はじめて読んだのです)
和声と器楽音の重なりあう瞬間の響きが、苦しみ悶える人々が右往左往するあの画面を、古い(過去5年以前)記憶から呼び覚ましたのだから。
そして、その晩。
帰宅した夫が、ドッグランの草取りで疲れ果てた私のために、厨房男子になってがんばってくれていたときのことだ。
私は、それまで流れていたコンポのお任せ音楽を止めて、あるCDを試しにかけてみた。
http://www.amazon.co.jp/C-25th-Anniversary-Concert/dp/B000000R3V
(楽天では取り扱い店舗が無いので、画像はこちらでご確認ください)
< in C > 25TH ANNIVERSARY CONCERT
テリー・ライリーという現代作曲家の作品なのだが、このCD、なんとチャプターが001しか無いのである。
76分20秒の演奏時間は、すべてこの1曲のために費やされる。
だから、普段、覚悟の無いときは聴けないものなのだが、明日は土曜で休みだしー。夫は厨房で、何かけようと気にならないだろうしー。という非常にいい加減かつ、いたずらな気分でCDを皿に乗せたのだ。
この曲は、パーカッションが中心に据えられた感じなので、まるで、バリの民俗音楽、ケチャのようにも聞こえる。
ケチャのように民族信仰に関わるものではないが、この曲には、あるルールが決められていて、そのルールの範疇を越えなければ、時間はおろか、参加する楽器や人数、など幾つかの自由が、演奏者たちに許されている。
というか、演奏者たちの手によってしか完成を見ない種類の音楽なのだ。
確か、楽譜も、ぐにゃぐにゃの線画によって表現されていたりして、ライナーの中では、もじゃもじゃの白い髭をたくわえたテリー・ライリーがにこにこと笑っている。
そして、厨房から顔を出した夫の顔にも笑みが浮かんでいた。
その後、料理を整えて、テーブルに着いた2人と1匹は、この日、ほぼ数年ぶりに、76分20秒のロングドライブを愉しんだのだ。
次の完走は、ロスト&ファウンドで(笑)。