大阪近鉄バファローズ
近鉄バファローズはとうとう悲願の日本一を果たせぬまま、55年の歴史を閉じその姿をファンの前から消した・・・。
第1章:人生を変えた野球観戦
たかがプロ野球、されどプロ野球。
スポーツなど遊びの延長に過ぎないと考える人には理解できないことかもしれない。だが、野球には、1ファンに過ぎない観客の人生を変えてしまう魔力がある。確かにある。選手の真剣なプレーが感動を呼び、陶酔状態に陥ったファンに、麻薬のように”ドリーム”を見せてしまうのだ。
そして、ほかならぬ私もその魔力に魅せられた一人である。「あの」試合を見に行かなければ、今の会社に就職もしていないし(いや、この会社を受けることさえなかったろう)今の妻と結婚どころか出会ってすらいなかったはずだ。
それほどまでに自分の心を揺さぶった試合、それが、1988年10月19日、川崎球場で行われたロッテ×近鉄のダブルヘッダーだった。
1)近鉄ファンになるまで
全日程を終えた西武を追う近鉄は、マジックナンバー2でロッテとの2試合を残していた。連勝すればもちろん優勝。だが、1つでも負けると、いや、引き分けがあっても勝率で西武を抜くことができない。
私は88年当時大学3年生。早生まれで子供のころから運動は苦手だった。父が巨人戦のナイター中継を見ていても、普段見ているテレビ番組が休止になるのがいやで一緒に見ることはなかった。野球とはもっとも縁遠い人間だった。
そんな私も大学に入って寮生活を送るようになると、周りの影響で多少は野球が分かるようになっていた。高校で野球部の応援に借り出されたり、中学の同級生が浜松商で甲子園に出たことも大きかった。
同い年のスーパースター、清原和博選手が西武ライオンズに入団したことも影響しているだろう。ただ、広岡前監督の管理野球、代わった森監督の地味なバント野球がどうにも好きになれず、アンチ西武であった。
86年(大学1年生)、西武と近鉄がパ・リーグの優勝争いをしてペナントレースを盛り上げ、近鉄が涙をのんだ。129試合目、阪急に大敗して優勝を逃したが、遊撃を守りながら涙を流した村上隆行選手に心を動かされた。近鉄が12球団で唯一日本シリーズを制したことがないのも気に入った。敗者を気の毒に思う気持ち、日本人が好きな判官びいきというやつである。
翌87年にトレンディーエースと呼ばれた阿波野秀幸投手が近鉄に入団して新人王を獲得。阿波野の格好よさも気に入り、私の近鉄びいきはだんだんと形を成していた。だが、球場までわざわざ応援に行ったり、毎日試合結果を気にするほどではなかった。
そして運命の日を迎えたわけである。
2)熱く長い闘いの始まり
前夜、学生寮の先輩から声をかけられた。彼はロッテファンである。もちろん、私の近鉄びいきも知っていた。ロッテはすでに最下位決定。18日の試合も近鉄に大敗していた。恐らくその先輩も優勝決定シーンが見たかったのだろう。大学の授業をサボって2人で行くことになった。
川崎駅から徒歩10分あまり、午後3時の試合開始に間に合うように来たつもりだが、切符売り場に信じられない長蛇の列。「川崎球場でこんなに人が多いのは初めてだよ」。ロッテの試合を見に何度か川崎球場を訪れていた先輩も驚く。近鉄の8年ぶりの優勝を見たくて私のような潜在的な近鉄ファンがこぞって集まってきたものと
思われた。「始まっちゃうよー」切符を買ったころには、プレーボールどころか1回表が終了していた。
先輩の勧めで、ロッテ側一塁内野席に入ってみる。いきなり、近鉄先発・小野和義がロッテの3番・愛甲猛に先制ホームランを許した。「込んでるけど、やっぱり近鉄側で見たい」。縁起が悪い。僕の頭の中では、ロッテ側で見たら近鉄が負けるような悪い予感がしていた。そこで三塁側の外野に近いあたりに移動した。
ロッテ先発の小川博ははっきり言って、近鉄が苦手とするタイプの投手である。このころにはスポーツ新聞をちょくちょく見るようになっていて、それぐらいは分かっていた。近鉄ナインは昨日の大勝がうそのよう。優勝を意識して硬くなっているのか、小川の術中にはまり0行進が続いた。