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2022/02/27(日)21:59

一 銭 五 厘 で つ ぶ さ れ た 半 生  横 井 軍 曹

元 日 本 兵 ・ 横  井  庄 一(33)

​​​​一 銭 五 厘 で つ ぶ さ れ た 半 生 ​兵 士 の 傷 跡 う つ し 出 す ​​庶 民 今 も ふ み つ け​ 憤 る 花 森 さ ん​ 「 暮しの手帖 」編集長、花森安治さんの詩に 「 見よ ぼくら一銭五輪の旗 」という詩がある。 一銭五厘は召集令状を印刷したはがき代だった。 花森さんは書いている。 兵隊は一銭五厘の葉書でいくらでも 召集できるという意味だった・・・ 貴様らの代りは一銭五厘で来るぞとどなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた。 へとへとになって眠ったーと。 28年間、孤絶のジャングルにひそんでいた横井庄一軍曹も、 「 一銭五厘 」で召集された兵士であった。 おそらく、人間としての限界を生きたであろうその四半世紀余の 営みは「 一銭r五厘 」で表される戦争のきびしさとむごさを、 あらためて私たちにつきつけた。 花森安治さんは、敗戦のとき、34歳の上等兵だった。 花森氏によれば< 一銭五厘 >は< 草莽( そうもう )の臣 >であり、 < 陛下の赤子 >であり、< 醜( しこ )の御楯( みたて ) >であり、 < 庶民 >だった。 花森さんの胸に迫るのは、横井軍曹が、兵士として、 30歳で召集された、という事実である。 「 兵隊であることと、将校であったことは、 軍隊では決定的に違った。 そして30歳のオトッチャン兵士と20歳の 現役兵でもまったく違った。 生活に責任を持たなければならなかった、 いわば老兵が、戦後もずっと戦争を生き続け なければならなかったこと。 その重さがジーンとくる。 <一銭五厘>の時代のことさえ、まだ処理されて いないじゃないか、とギョッとする 」 「 感情的にならざるをえない 」と花森さんは、涙声だった。 戦死した多くの兵士たち。かたわになった兵士たち。 生きて帰っても、戦争のツメ跡で、人間らしく 生きられなかった兵士たち。 その人たちの「 象徴 」として、横井軍曹の姿が、 こころが迫ってくるーーというのである。 「 だから」と花森さんはいう。 「 横井さんの登場に、わたしは、まだ、生きている 戦争の姿を突きつけられた思いです。 横井さんが生きた孤絶のグアム島のドラマは< 草莽の臣 > ひとりひとりの傷跡を、あざやかに写し出しているように 思えるのです 」 同時に、「 憤り 」もこみ上げくる、という。 「 横井さん以前に発見された伊藤さんたちに、 厚生省の役人は帰ってこられただけでしあわせだ。 君たちだけじゃないといったそうですが、 これはいったいなんですか。 なぜ。ご苦労さんでしたーーと頭を下げることが できないのです。 これはやはり< 一銭五厘 >へのセリフです。 横井さんの出迎えには、佐藤首相が羽田まで出向くべきです。 そのことを歴史の記憶にとどめるべきです 。 < 一銭五厘 >の庶民はいつまで踏みつけにされていいのかー というのである。 「 なかには、無縁仏の墓守としてひっそり生きてるような 旧軍隊の偉い人もいる。 しかし、偉い軍人のほとんどは、また踏みつけにする 側に回っている 」 長田玉枝さん(71)。 ニューギニア・サラワティ島で野戦気象隊員として戦った 長男堅憲さんが、死んだとは思えず、厚生省の戦死という 認定を拒んで戦友の家を歩き続けてきた。 母親の一心で、34年インドネシアのジャワまで、 去年は遺骨収集団について、念願の島まで行った。 しかし、泣く思いで叫ぶ声にはヤシの葉のそよぎしか 返らなかった。 長田さんは横井さん発見の前日も上京して 厚生省を訪れ、わが子の行方を確認するよう 頼み込んでいたという。 上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、 新聞に掲載されたものです。​​​​​

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