風鈴文楽夢綴り🌸 🌸 今日も笑顔で毎日ルンルンスキップ しよう🌸

2022/03/02(水)17:50

お み ゃ あ さ ん よ く ご 無 事 で

元 日 本 兵 ・ 横  井  庄 一(33)

​​​​​​​​​お み ゃ あ さ ん よ く ご 無 事 で な つ か し い ” オ イ ” 手 握 り し め 涙 の 対 面​​ 横井さんに会った大鹿さんは「 よくおぼえていてくれた  」 と目をまっ赤にして泣いていた。 「 庄一さん、おみゃあさんやーと、まめでいやーしたなも、 わしがわかりやーすか 」 28日朝、グアム島のメモリアル病院2階235号A室で奇跡の 生還4日目を迎えた横井庄一さん(56)は肉親として初めて 名古屋からきた母つるさんの孫、名鉄産業勤務 大鹿時義さん (43)と感激の対面をした。 庄一さんがかわいがっていた時義さんの名古屋弁に、 思わず庄一さんの目から涙があふれた。 大鹿さんは27日、パンアメリカン機でグアム島に着き、 この朝初対面。病室には報道陣など一切の立入りを禁じ、 大鹿さんは部屋にはいるなり庄一さんの前に走り寄り、 手をさしのべながら「 庄一さん 」と両手をしっかと 握りあった。 互いを見つめ合う目と目。 大鹿さんが「 長い間ほんとにご苦労さん。 一日も早くみんなの待っている千音寺( 名古屋市中川区 )に帰ってこい。 わしも初めは名古屋で待つつもりだったが、待ちきれずグアムへ来た。 ただ安心して帰って来てほしいが、庄一さん、8年前、あんたの帰りを 待ちつづけていたおっかさんは、あんたの名を呼びながら死んだ 」と 母親、つるさんの死を横井さんに伝えた。 横井さんは「 ほうか、ほうか 」とつぶやき「 わしはもう56だでなあ 」 とかねてから覚悟していたような表情でじっとうつ向いた。 大鹿さんが背広のポケットから白いハンカチを取出し 横井さんの涙をぬぐい、自分の目も押さえていた。 持ってきた写真を手渡し「 庄一さん、これがだれだかわかるかや 」 とならべると横井さんは「 これは千音寺の錠太郎さんだ。 こっちは越津の富五郎さんだ 」と次々に写真の名前をあてた。 時義さんと庄一さんは、越津で一緒に育ち、昭和16年横井さんが 出征するとき日本刀を抜いてカキの木の上に逃げた時義さんを 追いかけたこと、昭和18年正月2日、元満州の奉天で最後に 別れた時の思い出などしみじみと語り合った。 また、「 庄一さんが死んだ知らせがはいったため、 養子を迎え、家は非常にうまくいっている。 自分が余計者になるのではないかと心配だろうが、 そんなことは一切考えんでもよい。 わしらがいるので、親族会議を開き、きちんとする。 村の人もみんな待ってるで、早く帰ってちょう 」 というと横井さんは「 そうけ、天皇陛下も会って くださるそうで、きょうにも帰りたい 」と ほっとした表情。 帰 国 は 来 月 2 日 に 厚生省は横井さんの帰国について、2月1日夜羽田空港着の 日航機を予定していたが、横井さんの健康を気づかい、 運輸省、日航と折衝した結果、2月2日に日航臨時便を 仕立てることを、28日決めた。 臨時便は2日正午( 現地時間 )グアム発、羽田着 午後2時15分の日航 DC8機。 また横井さんの健康状態について現地医師と相談させるため 29日国立東京第一病院の小山善之副院長と同院の山田寿恵子 副総看護婦長の2人を現地へ派遣する。 上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、 新聞に掲載されたものです。​​​​​​​​​

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る