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文の文

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迷子の道しるべ1


迷子の道しるべ
りんごのき

くもりときどき思案・1


プライバシーという言葉の意味を辞書で引くと
1)私事。私生活。また、秘密。
2)私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利。
とある。

秘密という言葉がなんとも怪しいなあ。

誰かに言ってしまったら、それはもう秘密ではないのだけれど、
それを知ってる少人数の間だったら
秘密は秘密のまま保たれるということなのかな。

おおっぴらになったら困る事情というのを秘密というのかな。

王様の耳がロバの耳だなんて、
そりゃあ誰にも言えないなあ。
それを誰かが知ってしまったら、
そりゃあ王様の名誉にかかわるもんなあ。

でも、ロバの耳ってかっこいいじゃん!
ロバの耳持ってるなんて最高!!
やっぱ王様だなあ、うらやましいぜ!
なんていう世の中だったら、
それは秘密じゃなくて、自慢になるわけで

マイナスの事情というか、
そりゃあかっこ悪いぜっていう醜聞というものの時に
プライバシーという盾が必要なんだな。

わたしのことはほっといて!ということだな。

じゃ、個人情報というのは秘密なのかな。
悪用するひとがいるから守らねばならんのだな。

友人がビデオ屋さんに携帯のメールアドレス教えたとたんに、
へんな広告メールが何通も舞い込んてきたそうで、
きっとあのビデオ屋が流したに違いないと言っていた。

そういうことが拡大していくんだろうなあ。

わたしがわたしひとりで生きているなら、
そんな問題もないのだけれど、
家族がいて親族がいて、友人がいて、隣人がいて、
複雑に入り組んだ人間模様のなかにいるのだから、
そういう盾は必要なんだなあ。

でも、困ったことに、ときどき、
「王様の耳ってさあ・・・」と書きたくなってしまう自分がいるだな。

自分は、ロバの耳だなんてかっこいいじゃん!
というつもりで書いちゃうんだけど、
王様はそうは思わないんだな。

だからプライバシーって難しいんだよなあ。

くもりときどき思案・2


おんなのひとが
おとこのひとを
いとおしいと感じるとき
おんなのひとのこころのなかには
そのおとこのひとがいくつであっても
遠い日のはにかんださびしげな少年の姿が
思い浮かんでいるのではないかしら
と思うことがある。
おかあさんのような思いで
その少年を抱きしめているのではないかしら

くもりときどき思案・3

ほんとうに白洲正子さんはかっこいいと思う。 
作品を読めば読むほどそう思う。

「西行」のはじめにこんな言葉がある。

「そらになるこころが、虚空の如き心に開眼する、
その間隙を埋めようとして、私は書いているのだが、
西行の謎は深まるばかりである。

わからないままで終わってしまうかも知れない。
それでも本望だと私は思っている。

わからないことがわかっただけでも、
人生は生きてみるに足ると信じているからだ」 

この言葉に出会えただけでも、
なんだか満ち足りた気分になってくる。

くもりときどき思案・4

古道具に心惹かれるのは、
きっとそのものにしみこんでいる生活のにおいのようなものに
惹かれているんだろうなあ。

自分が置き忘れてきたものを届けてもらったような
そんな気分になるからだろうなあ。

くすんだ色をした大きな振り子のついたはしら時計なんて見つけると、
ちょっと涙ぐみそうにもなってしまう。

足継ぎをして、
蝶々のようなねじでぜんまいを巻いていたのは、わたしです


くもりときどき思案・5

野上弥生子はものすごく、いい、と思う。

随筆の端っこをさらっと撫でただけで、ゾクゾクする。
深い深い井戸をのぞきこんでいるような気持ちがする

くもりときどき思案・6

話は面白いに越したことはない。
加齢とともにこらえ性がなくなったせいか、
いよいよ詰まらん話は聞きたくないと思ってしまう。
人生の残り時間は楽しい話を聞いていたいと思う。

では面白い話とはそも何なのだろう。
誰かの自慢話ではないし、
手柄話でも薀蓄披露でもない、と思う。

諧謔だとか、エスプリだとかオチのある話がそれに当たるだろう。

しかし、それ以上に耳目を集めるのが噂話ではないかと思われる。

それもただの噂ではない。
「他人の不幸は蜜の味」とか言う。
世に言うスキャンダルはなべてそういうものだろう。

では、本当のことなのだけれど、
秘密にしておきたいこと、というのはどうだろう。

王様の耳がロバの耳だと知ってしまった床屋さんは、
その秘密が外に漏れることは良くないことだとわかっていた。
わかっていたから誰にも言えなかった。

でも、誰かにいいたい気持ちは嵩じてくる。
だってロバの耳なんですもん。

ああ、言いたい、言いたい、でも言えない。
床屋さんは穴を掘ってその穴に向かって
「王さまの耳はロバの耳」と叫んでしまう。

王様の耳がロバの耳であることが自慢すべきことでなく
、それは一種のスキャンダルであるから、
言っちゃいけないのだけれど、
ロバの耳だなんて、そんじょそこらになくて
めっちゃ個性的でかっこいいじゃん、
と床屋さんが思っていたら、どうなるんだろう。
それでも、やっぱり言っちゃいけないのかな。

話は面白いほうがいい。王様の耳がロバの耳だなんて、
もう最高に愉快で、わたしもそんな現場に立ち会ったら、
じつはねえ、なんて
ほんとうのところを書いてしまいそうな気がしている。

プライバシーというもの、
文章を書くひとは踏み絵のように試されるような気がする。

話は面白いほうがいいもんなあ。
ついつい踏み越えてしまいそうな危ういラインであるように思われる
と思ったりする。

くもりときどき思案・7

自分の性格に深みがないなあ、と思うことがある。
なんとも、物事を素直に額面どおり受け取ってしまう。

目の前のひとが口にしている言葉は、
そのままそのひとの思いなのだろうと思ってしまう。

自分だってこころにもないこと言ってしまうことがあるのに、
他人の言葉の裏を読もうとしない。

まったく、でくのぼうなのだ。おつむが機敏だったら
、裏腹の言葉を察知して、
また裏腹の言葉を返していけるのに、
なんとも愚鈍なことである。

でまあ、愚鈍は愚鈍なりに、何度かの失敗の後、
言葉の裂け目のようなものを感じとって、
なぜなんだろうと思案する。

あんなふうに言ってたのに、
ちっともあんなふうにならないなあ、とか、
あんなふうに言ってくれたのに
別のとこではこんなふうに言っているなんて、
とはてなマークが頭のなかでぐるぐるする。

そしてやがて気づく。
ああそうか。
ほんとは、ちっともあんなふうにするつもりじゃなかったんだな。
あんなふうだなんて思ってなかったんだな、っと。

ひとなんてそんなものだと、
人生のどこかで思い知らされたこともあったのだけれど、
その思いの先にあるのは人間不信だけであって、
その路線に乗っかってしまうと、
いつもいつも人の話の裏側を読んでしまうことになりそうだから、
引き返してきた。
愚鈍でまっとうでありたく思った。
だから、今がこんなふうなのだ。

しかしながら、この年になってみると
その言葉の裏側を読む能力のなさは、
実は、深みのなさなのではないかと思えてくるのだ。

不完全である人間が
なんとか生き延びるためのすべが
そこにあるのではないかと思えてきたりもするのだ。
 
ひととひとのあいだでかわされる言葉が思いの全てではなく、
正反対の思いが隠されていることも、
その強い言葉で身を守ろうとしていることもあるのだと、
やっと思い至っている


くもりときどき思案・8

野球場に向かう道すがら後ろから父親と息子の会話が聞こえてきた。

「ねえ、おとうさん、いつも、もらった券で来てるけど、
自分でお金だしてチケット買おうという気はないの?」

と息子が問う。
小学校の高学年くらいだろうか。
父親の落ち着いた声が答える。

「ああ。それほどのもんじゃないんだよ」

もっと、ここに来たいよ、
と息子は言っているのかもしれないな、と思ってみたりするが、
そうやって息子は父親を知っていくのだと、得心する。

球場で前の席に赤ちゃんがいた
男の子のように見えた。
まだ歩けないようすだか、
前歯が少し生えていたのでお誕生ちょっと前くらいかと思う。

その子は外野席の応援が鳴り響く中で、上
機嫌だった。こちらをのぞきこんでは愛想を振りまく。
笑い返すと、もっとにこにこする。

パパに抱かれると、パパにチューをする。
頬を摺り寄せる。8回あたりで眠くなる。
がんがん応援歌が歌われるなかで、すうすうと眠りはじめた。

思い出の形を考えている。
この日この時間をひとびとはどんなふうに思い出すのだろう。

野球場のなかで、
父親と過ごした時間を
いつか息子は振り返るときがあるのだろうか。
野球場の空気や音や匂いはどんなふうに戻ってくるのだろう。

幸せな親子の形は
そんなふうに作られるのではないかという気がしている。
そして、我が家のことを考えて、
すこし、残念な思いを持ったりもしている。

くもりときどき思案・9

「うらやんではいけない」

人生のなかで、幾たび、そんなことばを唱えたことだろう


くもりときどき思案・10

ときどき、ふっと自分が消えてしまったら、と考える。
この世にあることを厭うというほどでもないし
自分をこの世に強く引き止めるものもたくさんある。

それでもなおふっとそんな思いが湧く。

体調のせいかもしれないがもう十分かなと思えてくる。

昨日があって、今日がきて、そして、明日。
とどまることなく時は流れていくし
季節は変わっていくし
そうしてわたしは死に向かっていくばかり。 ]

自分はいったい何をしてきたのか、という問いにうまく答えられない。

なあんにも。 ただなんとなく日は過ぎて
笑った日も泣いた日もただ過ぎていきそうして今日も陽は昇る。
たぶん明日も。

くもりときどき思案・11-

視線


三月の末に浜離宮へいった。
三寒四温の陽気のなかのあたたかな一日だった。

手入れの行き届いた立派な松が並んでいた。
三百の年を重ねるという松もある。ど
の松も枝振りが、歌舞伎の役者が見栄を切るように、
ぴたっと型にはまっている。
実家の父が生きてこれを眺めたなら、
雀躍したにちがいない。身を乗り出したり、後ろに下がったり、
日がな一日眺めていたかもしれない。

広々とした庭園の豊かな緑の中で、
桜は気まぐれな強い風に枝を揺らしながら
春の訪れを告げるように控えめにほころんでいた。
山桜が多いのか満開はいま少し先という感じだった。

それに比して、お花畑と呼ばれるところでは、
一面に菜の花の黄色が溢れていた。
黄色も春を告げる色だ。
懐かしく遠い風景がその色に滲む。

池もある。江戸時代、品川に鯨が上がったとき、
将軍も鯨が見たいと言い出したものだから、
家来たちが思案して、この池まで鯨を運んできたのだという。
この風景のなかで見る鯨は圧巻だったに違いない。
そんな話を聞くと、生きてそこにうごめいていた、
ちょん髷をのっけた侍たちの姿が髣髴としてくる。

 何日か冷えた後の暖かい日だったので、
平日にもかかわらず、訪れるひとが多かった。
ああ、春休みなのだと気づく。
息子たちが卒業してからそういう感覚がすっかり失せている。

日本人ばかりではない。
英語ではない言葉を口にする外国人が多い。
ヨーロッパのひとらしい、
シックな色合いの服装の穏やかな目をした男女が
カメラを手に逍遥している。

 池の中央にある茶屋では抹茶が飲めるのだけれど、
順番待ちの列が長く延びていた
フランス語を交わす人たちも観念したように並んでいた。

私は抹茶をあきらめて、
池の手前に設けられた席で、
持参のペットボトルのお茶を飲んだ。

そして、ふっと一息つくと、庭園の周りが気になった。

 そのあたりは再開発されつつある汐留で、
高層のビルが林立している。
庭園の縁に茂る木々のむこうで
無数の窓が春の日差しを跳ね返している。

この感じはどこか外の場所でも感じた。
ああ、小石川後楽園もこんなふうだった。
木々のむこうを遊園地のジェットコースターが轟音たてて突っ切っていき
そのそばの高いビルの窓もこんなふうに庭園を見つめていた。

 廻らされた交通網の騒音も含めて、
都会にある庭園の宿命なのかもしれないが、
近隣の高いところから落ちてくる視線に、
常時曝されているのだと気づく。

そう気づくと何やら落ち着かない。
緑あふれる静かな空間に
無数の視線が絡み合っているようにも思えてくる。

視線は無遠慮に入りこみ、
なにかを探っているようにも感じてしまう。

実際には、オフィスで会議に疲れたひとや
コピーを取っているひとや窓際のひとが、
ふうとため息つきながら眺めているかもしれない。
来客の合間に社長が肩を叩きながら、見下ろしているのかもしれない。

そこでは入場料を払わずに、
この自然豊かな風景の隅々まで眺めることができる。
その人たちにとっては、
もう当たり前の風景で、何の気なしに見ているのかもしれないが、
それでも、望遠鏡があれば、
そこをいくひとの表情までうかがい知れるわけで、
うわさの有名人である誰とかと誰とかが密会していた、
なんてスクープもものにできるかもしれない。

なるほど、建物の高低差とはそういうものらしい。
文明はこんなふうにいとも簡単に暮らしの死角を奪っていくのだろうか。

 その昔、将軍様のために作られた特別な空間が
なんの抵抗もなく覗き込まれている。
生きてあったなら、
余にもプライバシーというものがあろうというものぞ、
と殿は申されるだろうか。
あるいは捨ておけ、と鷹揚に一笑に付されるだろうか。
いや、反対に、遠眼鏡を持て、と命じて
ビルを見物されたかもしれない。

 ひとの暮らしのありようはずいぶん変わったのだけれど、
それでも、好奇心というものは、
ざわざわと、ひとのこころの底にずっとあり続けるものです、
と三百歳の松なら言うかもしれない。

くもりときどき思案・12

はれてもくもっても

時々、負けるもんか!とか思ったりもする。


くもりときどき思案・13

道端でケータイをかけている若い男性がいた。
そのそばを通るとき
「それで仕事も手につかないんだから」
という言葉が耳に入った。
いったいなにがあったのだろう。
そんなせりふで、ものがたりを仕立てたりする帰り道、
公園の若い柳が揺れていた。
みどりのしたたり。
恋物語をつづっていた


くもりときどき思案・14

ひなたしみじみ石ころのように(たねださんとうか)

大それたことなど願ってないよ。
無事に今日を生きられたらそれでいいや

くもりときどき思案・15


「元気なの?」と案じる電話をもらった。
不義理ばっかりしてる自分を反省する。
はがきもらったのに、連絡しないでごめんね。
「元気ならいいのよ」と言ってくれる。
「声は元気だから、よかった」って。
うん。ごめん、声は元気だけど、
こころが元気じゃないの。
へんだね。誰と向かい合ってもにこにこできるのね。
おもしろいはなしもできるし、大笑いもするのにね。
でも、それって、ぽーんと打ちあがる花火みたいなもんで
しゅるしゅるしゅるってまた火が消えて
真っ暗になってしまうのね。
なんでかな。ほんと、なんでかな。

でも、嬉しかった。ありがとう。
また珍道中でお出かけしようね。
いっぱいおはなししようね

くもりときどき思案・16

ひとにはね、思い出したくないことがあるのね。
はずかしかったり、やりきれなかったり、情けなかったり、さびしかったり、かなしかったり、不安だったりしたこと。
もうもう封印してしまいたいよね。

誰かを傷つけてしまったという記憶も思い出したくない。
けど、絶対になかったことになんかできないんだなあ。

時々、深いところから湧き上がってくる、困った記憶と対峙して、
わああと頭かかえて赤面して大泣きして落ち込んだりするんだよなあ。

だから、このひとに傷つけられたと思っているひとが、
そのことを忘れてしまって、
そんなことはなかったことにしてしまっているのに気づくと、
猛烈に腹が立ったりする。

そのひとも忘れたいことだからかもしれないのだけれど、
足を踏んだひとは忘れてしまっても、
踏まれた人は決して忘れないよ。

でもって、私もまた、そんなふうに
誰かの足を踏んだまま知らん顔をしていたりする。

そして、そのことを思い出してしまって、またわああーと頭を抱えている。


くもりときどき思案・17

部屋のベンジャミンの若葉がぐんぐん伸びていく。
ふふう、そうだったね、君とは二十年のお付き合いだね。
いろいろあった二十年にずっと付き合ってくれてありがとう。
これからもいっしょにいようね

くもりときどき思案・18

わたしはすごくまっとうで
まっとうすぎて、あたりまえで
なんだか自分がつまらないもののように思えてならなかったのです


くもりときどき思案・19

わからないから
こころを添わせるんだよ。

わからないのに
わかったとは言えないけれど
わかろうとする意思は
伸びたツルのように
なんとかしてたどり着こうとするよ。

わからないのは
わかろうとしないからかもしれないね。

国を跨いでものを考える時
ルールがいくつもあって
わからなくなってしまうんだね。

相手のルールと自分のルール。

その違いを知ることからわかりあわなければ
きっとなにも結実しないんだろうね

くもりときどき思案・20

誰かと競うことの居心地の悪さは、
負けた時の自分の情けなさを呑みこむつらさの予感だった。

同時に、万が一にも勝ってしまえば、
その思いを誰か他の人にさせてしまうことの
申し訳のなさでもあった。

どちらにしても狭量なひとりよがりなのだが、
そんなふうであった年若いわたしは
「人生は旗取り競争ではない」という一文に出会って、
ああ、よかった、と妙にほっとしたものだった

くもりときどき思案・21

息子が二人いれば、毎日が水盃を交わさねばならんのではないか、
と不安で仕方がない時期がある。
今日はどこまでいったやら、と、
連絡もなく帰って来ないとき、命の心配までした。

現に、二人とも救急車で運ばれたこともあった。
母親はそうやってだんだん腹を括る。
彼らがここまで生きてきてくれてよかった、
と思えるようになってくる。

どのひとも命もいつかどこかでふっと立ち消える。
残念ながら、わたしたちは、そういう運命なのだ。
そう思いながら日を送っているのだ。

だからこそ、今日まで生きてきたことの意味を感じて欲しいと思うのだ。
今、生きてここにあることを嬉しく思ってほしいのだ。


くもりときどき思案・22

不幸の不等式というものがあるだろうか?
誰が一番不幸かなんて競いあうものでもないのだけれど、
それでも、生きにくさの大小を考えた時、
他者から見た不幸の不等式は成り立つのかもしれない。


くもりときどき思案・23

電車の前の席にスキンヘッドの男が座った。
ダブルの紺ブレを着込み、トラディショナルにまとめたいでたちだ。

手の甲の指の元の関節に大きなタコがある。
中指と薬指の下が特に大きい。

この男はいったいなにをしているのだろう、とホームズのように考える。

指輪はない。時計はGショック。
若いのかと思えばスキンヘッドの前頭葉部分には毛根の気配はない。

中肉中背、顔立ちもどこと言って特徴はない。
特別目つきが鋭いということもない。あえていうと足軽風だ。

ブレザーの襟に10円玉のようなバッジがついていた。
あれが手がかりになったに違いないが、よく見えなかった。

読んでいる雑誌は「dankyu」。板前さんかなあ。
空手家かなあ。うーん、気になる



くもりときどき思案・24

病院の待ち時間、赤ん坊の泣き声が待合室に響く。
小さな体から必死に声を絞って泣き声をあげる。

ああ、久しぶりに聞く声だ。

見慣れぬ場所で見知らぬ人に囲まれて、
それでなくても緊張してるのに
、採血されたり、注射打たれたりしたんだよね。

怖かったよね、痛かったよね。
そんな記憶が神経に障ってまた泣き声をあげる。

抱っこして揺らして、背中をトントン叩いて、
「いたかったねえ」「こわかったねえ」と声をかける。
お母さんのできることはそれくらいだよね。

自分の番が来て血圧を測ってもらうと
いつもより20くらい高くなっていた。
赤ん坊の泣き声に血が騒いだか・・・。

くもりときどき思案・25

更年期は4勝3敗で行こう。
元気と憂鬱の間を行ったり来たり。



くもりときどき思案・26

年を重ねると物事が単純に善悪で割り切れなくなるなあと実感する。
「誰にとっての」ということとが必ずついて回るように思うのだ。

自分の幸福が誰かの不幸で、誰かの幸福が自分の不幸であるとき、
声高に正義を云々できるだろうか。
傾いたシーソーでしかないのではないか。

戒めというものは、
ひとの不完全さの悲しさから生まれているのではないか。
悔いても悔いても不完全である人間の悲しさではないか。

ことさらに誰かを責める刃が自分に向いた時、
自分は胸を張って申し開きができるのか。
いやそれは、と言い訳しないか。
そんな自問を繰り返す。


くもりときどき思案・27

館の新潮社記念館で高井先生の生原稿を見た。
高井先生が名誉館長だそうだ。
見慣れたいつもの、
細かくて読みにくい旧かなづかひの字が並んでいた。
なんだかうれしくなった。

にこやかなポートレートも展示してあった。
ことさらに笑顔である必要があるのかもしれんと思ったりもする。
高井先生のお母さんはこの町の川で自死している。


くもりときどき思案・28

しあわせのかたちは自分で作るもの


くもりときどき思案・29

どんな時間も思い出になっていく。出来事の全てが思い出として身のうちに留まるのではなく、記憶の篩は数多くのシーンを消していく。

何もかもを覚えてはいられない。だからつらいことがあっても生きていけるのだといったのは誰だったろう。


ときどきくたびれたかたつむりになる。
角もやりも出せなくなる。
まあるくなって、夢ばかりみる

迷子の道しるべ2


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