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文の文

文の文

迷子の道しるべ・28

朗読
at 2007 02/19 22:53 編集

今月末、朗読の発表会がある。
5分間、自分の好きな作品を朗読する。

吉野弘の詩を3篇読む。
祝婚歌と夕焼けと樹。
毎日少しずつ練習する。

寒さにこわばった口は
なかなかうまく動いてくれない。
顔の筋肉がひとより少ないんだから仕方がない。
そんなときわざと
「詩のボクシング」の詩人たちのように
多少感情移入過剰気味で読んでみる。
それはなんだか気恥ずかしく
なんだか心地よくもあると気づく。

声で何かを伝えること。
至難であるが、これはこれで面白い。



可もなく不可もなく
at 2007 02/19 02:09 編集

孔子さまの論語にある
「可もなく不可もなく」というのは
まあまあってことだと思っているけど
自分はなすべきことや
なしてはならないことを
いいとかだめとか決め付けていない、
ということで
これを禅的にいうと
自分をみくびらない、ということだと
玄侑宗久さんはいう。

なるほどなるほど
だいそれたことを・・・なんて
思うことはないんだな。
なんか安心材料だなあ。



晩年の子供
at 2007 02/18 00:31 編集

山田詠美の「晩年の子供」に感動。
うまいよなあ。
ほんとにいいよなあ。
そうとしか言いようがないなあ。

少女の頃のこころの動きを
こんなにきれいに書かれると
おばさん、こころが震えます。



400枚
at 2007 02/17 01:39 編集

絹子と時生のシリーズ
勘定すれば400枚越え。

ものすごくくどいということか・・・。
ものすごくくさいという危惧もある。

まあそれだけの枚数書けたということに
満足しておこう。
ビギナーなんだから。





花粉症
at 2007 02/15 01:31 編集

花粉の季節が始まると
どうにも生きるレベルがさがってしまう。

億劫ということばが暮らしを覆う。


雑木林
at 2007 03/31 02:09 編集

見直し書き直し再構成の421枚。
雑木林シリーズ短編連作12作
とりあえず完成。
カルチャーの先生に送った。

「雑木林」
「ひきこみ運河」
「爪の形」
「ダンゴムシの避難訓練」
「透明ランナー」
「ひとあたはん」
「べっぴんさん」
「よわむし」
「虫食い」
「いとでんわ」
「わたこ」
「かくれんぼ」

こんなの見てくださるなんて
ありがたいことだなあ。
421枚もなあ。
書いた本人は必死だけど
読むほうはつらいかもしれないなあ。

どんなふうにご指導いただけるのか・・・。





いまひとつの花粉
at 2007 03/29 08:48 編集

わたしの花粉症は
シーズンで2度来る。
杉はもちろんなのだが
なんのアレルギーだか
さだかではないのだが
いまひとつの花粉がとんでいるらしく
この時期にギアが入る。

クシャミ鼻水はこちらのほうが激しい。
朝からティッシュの山を気づく。
鼻づまりにもなり口をあけて過ごして
咽喉をやられて
いささか寒気がして熱っぽくもなる。

すると節々痛くて
だるくてならない。
はーはー言いながら
ハンパな家事をする。
集中力もなくていかん!





おくればせ
at 2007 03/27 01:29 編集

息子2がこれ!
といって手渡したのは
モンブラン。
おくればせのホワイトデーなのだそうだ。
ありがとう



豪語
at 2007 03/23 21:22 編集

四百字で四百枚強。
短編連作11作。
最終12作目を書き直し中。
だんだんつじつまが合わなくなってくる。

そんなお話、
ほかのひとに読んでもらえるのかなと
なんだか不安になる。

いや、読ましてみせるさ、と
こっそり豪語したりする。
なんて言葉で自分を鼓舞するわけで・・・。

まあ、そんなふりこのような思いが
書き手のなかで
いったりきたりするわけで・・・。



400枚
at 2007 03/03 22:51 編集

がんばるぞ!
と自分を励ます。
やるっきゃないもんね、
と自分に言い聞かす。

ともすれば逃げたくなる自分を
なんとかなだめて
400枚の書き直し。

詰めの甘い人間だから
もうもう頭が痛い。





ひとりごと
at 2007 03/03 01:19 編集

ひとりごと言ってしまう。
他人が聞けば気恥ずかしいようなことを
次から次へ思いつくまま言葉にする。
そんな自分がなんだか新鮮だった。
ああ、そうか
ずっとそんなことをしていなかった、と気づく。


応募
at 2007 04/28 09:11 編集

A4・166枚分
原稿用紙420数枚。
われながらその分量はすごいね
と思いつつ
読み返すとひえー、となる。

はー、どうなりますやら。




天声人語
at 2007 04/22 01:54 編集

朗読の基礎練習として
自宅で天声人語の音読をしている。
音読の素振りのようなものだ。

はじめたのは今年の初めからだが
なんとも下手くそで
つっかえてつっかえて
我ながら情けなかったのだが
このところなんだかスラスラ読める
ような気がして
音読を勧めた先輩に
なんだかよくなってきたみたい
と告げると
「あなた、見てなかったの?
書き手がかわったのよ」
といわれた。
ああ、そうだったのかと納得した。
4月を境にして天声人語の
文章のリズムがちがうのだ。
短い時間に
限られた文字数で
データも盛り込んで
起承転結を付ける文章を書くのは
至難のことだが
事実を告げるだけでなく
余韻まで残す文章を書く新聞記者さんがいるのだ。

おのおのが持つ文章のリズムは
小学校6年生までの読書体験によるところが多い
と聞いたことがある。
とかく無味乾燥な事実の羅列になりがちな記事を
潤いのある文章で書ける記者は
そういうひとたちなのだ、と。

音読してみると文章のリズムがわかる。
達意の文章はみなリズムがいい。

自分の「母」を朗読したとき
ものすごくつっかえてしまった。
思いのほうが先走っていたのだろうなと反省する。

読みやすいだけが文章の魅力ではないけれど
読んでもらえなければ伝わらない。

そんな思いで出版物を読むと
なんだか世の中には文章のうまいひとがいっぱいで
ちょっとひるんだりする。

でも、自分ももうちょっと
がんばってみようかなと思ったりもする。





ひとり日和
at 2007 04/20 00:24 編集

乱視の老眼は活字がつらい。
本がなかなか読めない。

ようやく読んだのが教室の課題の
「ひとり日和」
芥川賞受賞作品。
太宰治が手紙でくださいくださいと
志賀直哉に懇願した賞。

賞っていうのは
審査員の好みの問題もかなりあるのだろう
これは世代の違いに敏感なひとが
選んだんだろうなという気がする。

よくわからない世代を
よくわかっている世代の横において
駄菓子のカタヌキを抜くようにして
その境界線を言葉で切り抜いて
少しずつ象っていくようなお話に
YES !という札が上がったんだろうなあ。

夏の盛りの陽射しのなかの体温の低さ。
その生きにくさのようなもの。
あらがわず、思い入れないことで
自分を守る。

それでもだれかのカケラと
つながっていたいから
靴箱の小物が増えていった。

そんなこともあったわと
いつかふりかえる日に
その体温はいくらか上がっているのだろうか。




at 2007 04/18 09:50 編集

たとえてみれば
手に持った花火が消えていくときの感じが
日々のなかに必ずあって、
これはなんだかたまらない。

更年期って
こんなふうにさびしいものなんだな。

そんなことを考えないで
たのしい時間をエンジョイしましょうよ
なんていわれてその気になったとしても

なにをしても結局
そのおわりのときはくるもので
どんなに盛り上がった祭りも
盛り上がった分だけ静寂が深いわけで

とぼとぼとひとり歩く帰り道のような
そんなこころもちで日が暮れる。

春はどうもこころが重い。




おちこみ
at 2007 04/16 01:49 編集

縄を編むみたいなもんだ。
表がでたり裏がでたりするんだ。
表と裏の帳尻はけっこう合ってたりするんだ。

浮かれてるとこうなるんだ。
いっつもそうだ。

きっちり落ち込んで
また浮かぶしかないんだ。

はあー。



今日
at 2007 04/15 00:23 編集

たとえば
ニルニギの新茶にレモンを入れて飲む。
あったかなものが体に入る。
ほっと一息つく。

自分を取り巻くものが
どんなふうに変わっていっても
それで気持ちがどんなに揺れていても
窓を鳴らす風の行き先が気になっても

ああ、レモン、合うねと言うと
ほんとだね、と答える。

そいつが今日を生きてるってことなんだ。



いいんだよ
at 2007 04/14 07:04 編集

春はどうもいけない。
気持ちが不安定でいけない。
すくすくと育っていくものに囲まれながら
沈み込んでいく。

ただここに突っ立っているだけでは
取り残されてしまう
そんな不安が身を包む。

そんな不安になんの意味がある。
取り残されているのではなく
ここにいるのは自分の意思だと
そう思わなければ
永遠にこころは削られるばかりだ。

ここに突っ立つ意味は
ここが安心できる場所だからだ。

レオレオーニの絵本の2匹の蚤だよ。

あっちへいく蚤
こっちにいる蚤

走り幅跳びの記録会に
参加する人生もあるさ。
みんなおんなじ方向を向いて
どこまで飛んだか競争さ

誰よりも遠くへ飛んで
一番になること
それが目的。

飛ばない選択をすること
飛ばないと決めたら
もう記録は関係ないんだ



倦怠
at 2007 04/14 06:47 編集

降り始めた雨の音を聞いて納得する。
ああこの不調は気圧変化のせいだったのか、と。

ねむくてねむくてねむくて
春眠だなあと思う。

この倦怠を
意図的に作りだせるものがあれば
それはすごい兵器になるな。

戦わずして勝つ!みたいな。

敵の戦意を削ごうとする
ラジオ放送とかビラの延長で
特定地域の気圧をコントロールする兵器で
敵を倦怠感まみれにしてしまう。

でもそこに攻め入ったら
味方も戦意喪失してしまうから
戦わないけど勝つことはないかもしれない。

しかし、気圧変化に強い種も存在するわけで
そんなひとは倦怠感まみれのひとを乗り越えて
戦ってしまうかもしれない。

いや、気圧変化によってストレスを感じたひとは
より攻撃的になってしまうかもしれない。

だとしたら、兵役検査のおりに
気圧変化の箱のなかに一定時間入れられてから
口頭試問があったりして・・・

で、そのさばいばるを制したひとが
敵陣に乗り込んでいくことになる。

敵陣に乗り込んでいくと死亡する確率が高くなる。
と、気圧変化に強いひとのDNAが
次の世代に繋がらなくなるのではないか。

なんて空が落っこちてくるんじゃないか、みたいな
本当は縁なきものを憂慮したりしている。



距離
at 2007 04/10 09:48 編集

時々ひととの距離の取り方がわからなくなる。

52年も生きてきて思春期に思い煩ったようなことに
いまだに振り回されたりする。
まったくもって成長のないことである。

まるっきりわからないというのではない。
なんとなくわかるのだけれど
どうもへったぴいなのだ。

初対面はいい。
自由にとわれごとなくのびのびとした自分でいられる。

そこで大好きになってしまえば距離はぐんと縮む。
そこから発展していった長く密度の濃い付き合いもある。
人生の山川をかたわらで見ていてくれたひとたち。
そこではなにを言っても自分である。

その中間の「知り合い」というポジショニングに困っている。
すきでもきらいでもないけど、知り合いである、というとき
どんな位置にいればいいのかわからなくなってしまう。

永遠に初対面ではいられないし
一足飛びに密度濃くなるのも稀有なことだし。

作家の柳美里さんというひとは
おまけをしてもらった店には二度といけないらしい。
またおまけしてもらいたくて来たのかと
思われるのがいやだからだという。
それににた自意識なのだろうなと思う。

初対面から時間がたって
互いのなかに立ち入って
旧知のなかにように親しく話してしまっても
そのあとなかなかべったりはできないし、
べったりしてもされてもそれはなんだか息苦しいし、
なんだかそれにも嫌気がさしてくるし
かといっていつまでも他人行儀でいるのも
悪いかなとか思ってしまうし

どうすべえと思っているうちに時間はたって
どんどん不義理ばかりがたまっていって
それでいよいよ遠くなってしまって
それはなんだか仲たがいしたような気分にもなってしまって

知り合いなのに知り合いじゃないみたいな距離で
それでもやっぱり知り合いは知り合いで
かといって今更距離を縮めるのもおっくうで
じゃこれでいいのかと自問すれば
あかんやろと思ったりもするわけで
冒頭の言葉と相成るわけだ。

知り合いとは
大きく前にならえの距離でいるのがいいのかもしれない。
ときどき小さく前にならえになって
また大きく前にならえになる。
それでいいのかもしれない。

そんな埒もないことを思う。



梗概
at 2007 04/09 00:03 編集

梗概のことを先生に聞いた。

どういうところで
どういうひとたちが
どういうふうになったかを
簡単に書けばいい。
それだけで3枚にはなる。

5枚と書いてっても
3枚くらいでもいい。

梗概のよしあしだけで
落ちるということはない、とのこと。

何度も応募している息子1にも聞いた。

それ悩むんだよね。
前もって
ちゃんと書かなきゃと思ってるんだけど
ついつい時間がなくなって
当日にまとめちゃうんだけど・・・。

なんだ余裕があったわけじゃなくて
時間がなかったんだ。

ま、どうあれ
自分の書いたものなんだから
自分でやるっきゃないってことね。

最初のプレゼンみたいなもんだから
けっこう緊張するんだけど
梗概だけよくても仕方ないなという気もするし
トータルにちからつけていくしか
ないんだろうな~。





小説教室
at 2007 04/07 06:45 編集

新しい小説を書いて提出。
「ふびんや」25枚。

連作で伸ばせるかなあ。
だめかなあ。

いぬばなしも書き始める。
これもなかなか面白い。





ほっ!
at 2007 04/03 00:08 編集

小説のこと
先生はあれでいいですから
応募してくださいと言った。

しかし先生のあげた応募先が意外なところで
へー!?と驚いている。

そんなとこ送っても、思うのだが
ま、他に該当するところがないんだから
しかたがないのかな。

とりあえずはほっ。


有頂天
at 2007 05/28 01:21 編集

有頂天になるにも才能だとか。

でかしたでかした、と
たまには自分の頭を撫でてやる。

アルバムに写真を張るように
褒め言葉をこころに貼り付ける。

弾んで飛んだマリも
いずれ地面に落ちてくる。
それでも弾まなければ
見えない景色もある。

こんな日があるから生きていける
のだと思う日がある。





屈託
at 2007 05/20 00:03 編集

なんにもしなくても日は過ぎる。

過ぎていく日を勘定しながら
我慢の日々。

ああ、説教垂れたい!!!!!
のほほん息子たちにカツ入れたい!

なんて思いながら
わたしはハンバーグを捏ねて
鬱憤晴らしのように
大きな音を立てて空気抜きをする。

あーあ、親であり続ける限り
世に屈託の種はつきまじ・・・。





5月14日づけ
at 2007 05/16 01:25 編集

ばさまのCTと内視鏡の検査に付き添うため
京都に行っていた。

足の萎えたばさまを車椅子にのせて
歩いて5分強の病院へいく。

車椅子を押すというのは
なかなかに技術がいる。
家を出るときに段差にてこずる。
幅寄せ切り替えしも難しい。

病院の狭い廊下や待合を
どこにもぶつけぬように進む。
車椅子用トイレにも車椅子で入った。

地面の凸凹を敏感に感じたせいか
ばさまの大声が人目をひいてしまうせいか
緊張して肩に力が入ったのか
はたまた病院のさびしんぼうを
背負ってきてしまったのが
なんだか背中が重苦しく痛む。





5月11日付け
at 2007 05/14 22:34 編集

東欧へ行っていた家族2人が帰ってくる。
自由時間はたっぷりあったのに
なんだかだらだらすごしてしまった。

毛布やセーター冬物洗濯して
衣替えして
マットやソファーカバーを変えて
植木鉢の植え替えをして
そういうことはやったのだけれど
いまひとつ充実感がない。

また日常が帰ってくる。



親ばか気分
at 2007 05/01 01:30 編集

ある同人誌の文芸時評に「雑木林」を
とりあげてもらった。
ちょっと褒めてもらった。
すごくうれしかった。
これは親ばか気分に似ている。


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