551902 ランダム
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文の文

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     土門                      
 
 ひなは墨を磨る。恵吾が遺した硯に墨を磨る。

硯の陸に水を数滴垂らして、墨を半直角に傾け、「の」の字に磨る。

濃くなったらそれを硯の池のほうへ落とし、また数滴、水を垂らし、穏やかな気持ちで墨を動かす。急かず慌てず、それを繰り返す。

ゆったりと磨って、墨の炭素の粒子を細かくする。そのきめの細かさで墨の色がきまり、その細かさゆえに、繊維の奥深くまで染み込んで、紙に馴染む。

力なきもののように磨るのだよ、いとし子のつむりを撫でるようにゆっくりと磨るのだよ、と恵吾が教えた。

ひなは細筆を取って年賀状の宛名を書く。お習字は恵吾に習った。筆は親指とひとさし指でつまむように持って、曲げた中指を添える。

褒められたくて、幼いひなは懸命に練習した。恵吾が朱の筆で大きな丸を付けてくれる、その誇らしさをひなは今も忘れない。

注文を貰った顧客ひとりひとりの所番地と姓名を毛筆で書いていく。いつからか、これはひなの仕事になった。

師走の季節の決まりごととはいえ、時間がかかる。この十年のあいだに、年々顧客が増えたこともある。同時に物故された客の確認もしなければならない。

欠礼の葉書で確かめているうちに、思い出されることも多く、そんな気持ちの道草でまた時間が過ぎていってしまう。今年は、あずの小旅行の日から書きはじめて、もう何日もかかっている。

「どうえ、今日中に終わりそうか?」

 文机に向うひなの傍らで、あずが針を動かしながら訊ねる。納品の期日が迫った正月用の晴れ着にしつけ糸をかけているところだ。古着を仕立て直すのではなく、あずに新しく着物を仕立てて欲しいという注文が続けてくるのもこの季節だ。

正月前後はいつにまして「ふびんや」の商品が動く。和風雑貨店の稼ぎ時である。

店には、注文品を取りにくる客や、ちょっとした心づけやお年賀にする小物を買い求めにくる客の出入りがひんぱんで、その対応に追われ、なかなか自分たちの時間が取れなくて、今日はどちらも夜なべ仕事になった。

柱時計は十時を回っている。

風が強くなってきたようだ。踏ん張りきれずに、古い家が揺れる。忍び寄る寒さにともすればかじかむ手を温めながら、互いの仕事を進める。遠くサイレンの音が聞こえる。

「うーん、何事もなければ大丈夫だと思うけど」

 筆を動かしながら、ひなが答える。

「何事って、こんな時間に何が起こるっていうんや」

「わかんないけど、なんか気持ちがざわざわする……これはあんまりいい感じじゃないと思う。……ま、なんというか、備えあれば憂いなし。つまり葉隠れですかね」

「なにをいうてるんや、この子は。あんたのきまぐれ超能力はわかってるけど、年賀状ははよせんと、おついたちに着かへんさかいに、せっせと書いてな」

「はいはい、こころえてござる」

「あとどれくらい?」
「あとは……今年からのお客さん分と、商店街のひと」

「そうかあ、だいぶ書きおわったな。えーっと、清岡さんて……誰やった?」

ひなが書き終えた一枚を手にとってあずが思案する。年々名前の覚えが悪くなる。

「うーん、きよおか……たくみ………。あ、思い出した。亡くなったおじいさんの羽織りの裏でベストを作ってくれって言ってきたおとこのひとだ」

「ああ、あの大学のセンセか。痩せて猫背のおかたやったわ。柄は鷹やった。けっこう派手なもんやった。見かけによらん、思い切ったことしゃはるなあって思たわ」

 名前は忘れても自分が作ったものは忘れない。

「そうそう、真ん丸眼鏡で、あの……そう、父が読んでた、永井荷風みたいな顔だったね」

「ふんふん、わかるわかる。このあいだのバスツアーで、よう似たおひとがやはったわ。鉛筆みたいな体、したはったけど、よう食べるおひとやったわ。その奥さんは岡本かの子みたいやった。こわそうでなあ。世の中、いろんな夫婦がいるもんやなあっておもたわ」

「ふふ、つまり、いい感じのひとはめっかんなかったわけね」

「まあ、日帰り満腹ツアーやもんなあ」

「じゃ、この清岡さんなんて、どう?」
「どうって、うらなりはん、やんか」

「うらなりって、いうかあ。でもあのひと、左手にペンだこが出来てたね。左利きで、手書きの原稿書くひとなんじゃないかな。ちなみに薬指にリングはなかったよ」

「へー、そやったかなあ。気がつかへんかったわ。あんた、ホームズみたいやな」

「ソウナンダヨ、ワトソン君。チュウイリョク ノ モンダイ ナノダヨ」
 抑揚のない発音でひながふざける。

「あほなこというてんと、手をうごかしよし」

そんなことを言い合っていると、突風が吹きつけたかのように店先のガラス戸が大きく鳴り、軋みながら開いた。その一瞬、商品を覆う埃よけの白い布が、入り込んだ空気の流れになびきながらふわりと舞う。

何事かと驚いたふたりが顔を上げると、あかねがそこにいた。

その顔つきがいつもと異なる。光の加減か、なにやら思いつめているようにも見えた。

さっきからの胸騒ぎの原因はこれだったのか、と血が引く思いでひなが訊く。

「あ、あかねちゃん、ひょっとして、摂おばさんがどうかしたの?」

「うううん、そうじゃない。かあさんは大丈夫だから安心して。あのさ、さっきサイレン、聞こえたでしょう?」
「うん」

「あれ、消防車で、たむら荘が火事なんだって」
 ひなは息を飲む。これだった、と思う。

「えー、えらいことや。たむら荘ていうたら、あのキューピーさんの着物をぬうたげたおばあさんのやはるとこやないの」

「そうなの。今からとうさんが消防団の助っ人で行くから、車出すって言ってるんだけど、ひなちゃん、どうする? いっしょに行く?」

「あ、わたし、行ってもいいの? 公子さんひとり暮らしだから心配は心配なんだけど……」

「ひな、あんた、だいじょうぶなんか? 迷惑かけることにならへんか」
「おばさん、ひなちゃんが行くなら、わたしも行くから」

「まあ、ここでやきもきしててもしゃあないけどなあ。あんた、ようよう気いつけてな。あんまり火のそばによったらあかんえ。こんどがわたしがなんやしらん、ざわざわするわ」

「うん、わかってるって」
 支度をして表にでると車のなかで半纏を着た統三が待っていた。ぺこんと頭を下げるひなに統三は言う。

「おっ、きたきた。あったかくしてきたかい? ひなちゃん」
「うん、カイロも持ってきた」

「あのな、この火事、ひょっとしたら放火かもしれないんだ」
「えー、放火? そんなの、ひどい!」

「あのアパートのある町内、このところ、不審火が続いてるんだ。消防団でも警戒してたらしいんだけどな」

「とうさん、話はあとで、早く出して」
「ああ、わかってるよ」

 ヘッドライトが商店街に伸びて、くらがりでたむろする酔客を照らす。
まだまだ灯りが消えない師走の大通りを車は進む。ファーストフード店の前の派手なノボリが、激しく波打って風の強さを教える。

星の見えない空、せわしなく雲が風に流されていく。まだざわざわする気持ちを抑え、ひなが言う。

「あのアパートは路地のつきあたりにあるって母が言ってたんだけど、そんなところは、消防車がはいれないよね。いったい、どうやって消すのかな」

「ああ、あのへんもごちゃごちゃ家が建て込んでるからなあ。路地に手押し車が入るかなあ。背負い器で入って、ホースをながーく伸ばすしかねえな」

「古いアパートだから燃えやすいんでしょ?」
「ああ、それにこの風だもんな。はー、まいるな」

現場のそばまでいくと何台も連なった消防車の点滅する灯りがあたりを染めていた。塀や木戸や立ち木までもが赤い。まがまがしい、とまでは思わないが、なにやら不穏な雰囲気のするスポットライトだ。

三人は路地のだいぶ手前大通りで車をおりて、ようすをうかがう。同じように現場を遠巻きにしているひとたちがけっこういる。寒そうに腕組みをして、それぞれの連れとなにやら囁きあっている。

路地の奥から暗い空に向かって、太い煙が風に揺らぎながら立ちのぼっているのが見える。火の粉も飛んでいる。ここからは見えないが、炎は風に煽られ、ふくれあがり、大口を開けて建物を飲み込んでいるに違いない。

「チクショウ、ずいぶん、おおごとになってるみたいだな」

 横道にはいって、もうすこし現場に近づくと、アパートに続く路地の入り口が見えてくる。路地に続く地面には何本ものホースが生き物のようにのたうっている。

吐く息が白いこの寒さにもかかわらず、路地の先を覗き込むたくさんのひとが群がっている。荷物を抱えて避難していく住人もいて、そのあたりは騒然としている。

気がつくと、家が燃える匂いとなにかほかのたくさんのものが入り混じった匂いがしている。

パチッとなにかが弾ける音、舞い上がる火の粉。がさっとなにかが崩れる音。放水の音。勢いある水が建物にぶつかる音。怒鳴るように掛け合う消防士の確認の声。無線の鳴る音。入り乱れて踏みしめる足音も聞こえてくる。

そんな音に耳を奪われながら、ひなは、貪欲にすべてをむさぼり尽くそうとする炎を思い浮かべる。そして無意識に息を詰めて、胸の前で両の拳を重ねて握りしめる。

マイクを持った消防士が厳しい顔つきで消火に状況を説明し、苛立ったような声で、ここは危険だから、もっと下がるように注意している。時折マイクがキーンと高く鳴る。

「こっちの組長さんさがして挨拶してくる。キューピーばあさんのこと、聞いてきてやるよ。ばあさんの部屋は何号室だい、ひなちゃん?」

「一〇三号室。内藤公子さんていうの」

「わかった。俺はちょっと手伝うことになるかもしれない。寒かったら車のなかで待ってな。ここいらはあぶないからさ、下がったところにいたほうがいい。気ぃつけてな、」

統三は慣れた手つきで野次馬を掻き分けて路地のなかへ入っていった。消防団のごつい半纏の後姿はいつしか見えなくなった。

「なんだか、おじさん、かっこいいね」
 ふっとそんな言葉がひなの口をついてでた。

「ふだんのとうさんじゃないみたいでしょ? こんな時はアドレナリンが出まくってるからね」
「ほんとに、江戸っ子って感じね」

「ま、江戸の華っていうしね。そのむかし、かあさんはあの姿に惚れたらしいよ」
「でしょうね。おじさん、お祭りのときも、きりっとしてるもんね」

「あれで、けっこうモテたりして、まあ、ちょっと揉め事もあったらしいよ」
「へー、それは初耳。あんなに摂おばさんに惚れてるのに?」

「だからさ、そこも江戸っ子なのよね」
「そういうの、江戸っ子なの?」
「いろいろ血が騒ぐってこと」

ふたりは背伸びしながら野次馬の最後尾に連なって、統三が消えた路地の奥をうかがう。路地は曲がりくねっていて、先が見通せない。ただ、現場の音と匂いとひとの気配が、出口を探してうねりながらあふれてくる。

「大丈夫かなあ。公子さん、膝が曲がってるから、歩行器なしじゃ歩けないの」

「そうかあ。でも、救助は消防士さんがやってくれるよ。レスキュー隊とかもいるんじゃないの? ただ、煙に巻かれるとこわいよね」

しばらくすると、路地の奥から両脇を救急のひとに抱えられたアパートの住人が出てきた。煤けた顔を伏せ、咳き込んでいる。煙を吸い込んだのだろう。額にできた火ぶくれが痛そうだ。

通りに止まっている救急車に向かう通路確保のためマイクを持った消防士が「さがってさがって」と尖った声で怒鳴る。

その声に押されるように、ひとの群れがどよめきながら後ずさってきた。あかねはこともなげに後ろへ下がったが、足の悪いひなはバランスがうまく取れなくて、たたらをふんで、挙句、路上で転んでしまった。

「ひなちゃん、ひなちゃん、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ。わたし、こういうの、慣れてるから」

 てれくさそうな顔で答えるひなをあかねが助け起こそうとすると、横合いから、手袋をした手が伸びてきた。

「だいじょうぶっすか?」
 太い声がした。大きな体がかがんでひなを起こした。

見上げると引き締まった顔がひなを見つめていた。新たに到着した応援部隊の消防士らしい。オレンジ色の消防服を着て、背中にボンベを背負っている。これから路地へ入っていくようだ。

「あ、はい、ありがとうございます。だいじょうぶです」

 そこへさっきマイクで注意をしていた消防士がかけつける。入れ替わるように、ひなを助け起こしてくれたひとは去っていった。すばやい動きだった。

「あの、再三注意しているように、ここはあぶないですから、もっと下がっていてください。消火の妨げにもなりますので」

「あ、すみません。ただ、知り合いのひとり暮らしのおばあさんがあのアパートに住んでいるものですから、心配で……」

「関係者のかたですか?」
「あの、知り合いのものなのですが、身寄りがないかたなんで、心配で……安否がわかればいいんですが」

「一〇三号の内藤公子っていうひとなんです」
「あ、ちょっと待っててください。確認してみます」
 その消防士も路地の奥へ入っていった。

「ひなちゃん、だいじょうぶ? 足、痛くない?」

あかねが案じる。ずっとこの目に守られてきた。

「ブザマ デ ナサケナイ デス。 ココロ ガ イタミマス 」

 ロボットのような口調でひなが答える。誰かの役に立ちたいのに、反対にいつも誰かの世話になってしまう。

体育も遠足も、半分参加で半分見学だった。できることだけ、やらせてもらった。

年上の子供たちに押し付けられたみそっかすの子のように、いつもひなだけの特別ルールがあった。ひなちゃんだから、という言葉で、みんながひなの存在を納得していった。
  
自分がいると足手まといになるのではないか。その思いはどんなときもひなのこころにある。

遠い日、窓枠が切り取る運動会。その練習風景。日向と日陰の境目に立って見つめるだけの時間。ひなをこちら側に引き止めるのはひな自身の足だ。自分にできることとできないことの境界線をその足が引く。

陽の射すフィールドにむかって、ひなにできるのはせめてもの応援だけだったが、赤でも白でも、どちらが勝ってもそれはひなのチームではなかった。ただあかねのいるチームが勝てばそれでうれしかった。活躍するあかねが誇らしかった。

「もうー、ひなちゃんたらふざけないでよ……。そうだ、あっちの敷き石のあるところでちょっと座ってようよ」
 腰を下ろしてひながジーンズをめくりあげると膝小僧に血が滲んでいた。

「あーあ、不名誉な負傷ね」
「痛くない?」

「と言ったらうそになる、なんてね」
「もうー、この子は!」

「あ、煙が細くなったみたいよ、あかねちゃん」
「ほんとだ、下火になったのかもしれないね」
 ふたりが空をみあげていると、さっきの消防士が戻ってきた。立ち上がって話を聴く。

「あの、失礼します。さきほどの内藤さんというかたはたった、今、確保されたもようです。いのちに別状はないようですが、これから此処を通って救急車で最寄の大学病院に搬送されます」

「ああ、よかったです。ありがとうございます。……あの、内藤さん、キューピーさんは、持ってましたか?」

「えっ? なんですか?」
「あの、お人形なんです。五十センチほどの大きさなんです。ひとり暮らしの内藤さんとは三十年もいっしょに暮らしてきて、それはそれは大事にされているんです」

「さあ、それはこちらではわからないです。が、とりあえずその報告はしておきます。そういうことで、よろしいですか」

「あ、どうも、お手数おかけしました。ありがとうございました」
 消防士はまた路地へ向っていった。ふたりはまた腰を下ろす。

「ああ、よかったね、あのおばあさん、無事みたいで」
「うん……よかったあ……」

「そうだ、キューピーさんはどうなったんだろうね」
「うーん。鞠子さんが燃えちゃったら、公子さん、ショックだろうな」

 公子にとって鞠子はただの人形ではなく、三十年という歳月をともに生きていた、いわば同士だ。

「そしたら……ひなちゃんが作ったあのちりめんの着物も燃えちゃったんだね」
「ああ、そうかあ、あれも……燃えちゃったんだね」

「ちりめんの思慕、炎上かあ……」
 ふたりは言葉をなくして、うつむいた。ひなの靴に転んだときの泥がついていた。膝の擦り傷がひどく痛むような気がしてきた。
「それでも公子さんが生きてたんだから、よかったって思うよ」

「そうだね。いのちあってのものだねだからね」

「うん、着物はまた作ればいいんだから……でも、鞠子さんがいなくなったら着物もいらないのか……」

「これ、飲む? カイロ代わりに持ってたの」

 あかねがポケットから缶コーヒーをふたつ出して、ひとつをひなに渡す。

咽喉を通るコーヒーはだいぶぬるくなっていたが、その甘みがありがたかった。

 野次馬がまたどよめいている。路地から消防士が救助したひとを抱えて出てくる。今度は何組かが続いている。

「あ、また出てきたよ。公子さん、いるかな」

缶を足元に置いて、あかねが立ちあがった。ひなもゆっくり立って、人影越しに覗き込んだが、両脇を支えられたひと、抱きあげられたひと、どのひともみなうなだれていて、表情が見えず、だれがだかだかわからない。

それでもひなは「公子さーん、内藤公子さーん」と大きな声で呼んだ。あかねも「内藤さーん」と声をかけた。

前にいたひとびとが一斉に振り返ったが、ふたりはかまわず続けた。しかし、返事はなく、その姿をみることもできなかった。

やがて大きなサイレンの音をたてて、救急車は動き出した。

「今のに乗って行ったのかな、公子さん」

「どうだろうねえ。わかんなかったね。……あっ、とうさんだ」

 統三が帰ってきた。どことなく煤けた感じがする。

「おお、いたいた。ふたりともなにごともなかったか?」
「あのね、ひなちゃんが野次馬に押されて転んだ」

「おいおい、なにしてるんだ。ひなちゃん、痛むのかい?」
「平気。それより、火事、どうなったの?」

「ようやく下火になって、延焼の危険もなくなったみたいだ」
「かなり焼けたの?」

そういいながら あかねが統三にも缶コーヒーを差し出した。統三はコクコクコクと一気に飲んで、大きなため息をついた。

「ああ、ひどいよ。景気よく燃えやがった。どうも、亡くなったひともいるみたいだ」

「へー、そんなにひどかったの? あんまり時間たってないのに」

「火の回りが速くてな。燃えやすいものが多かったみたいだ。けど、昔の建物だからさ、ややこしいもんがなかったから、みんなきれいさっぱり燃えちゃったさ。今はもう、消し炭みたいになった梁しか残ってないよ。もともと幽霊屋敷みたいなところだったがな」

「あっけないものね」

「ああ、火事はこわいさ。しかし、今回は消防ががんばったよ。あのアパートだけですんだんだからな」

「でも、公子さん、お家、なくなってこれからどうするのかしら」

「まあ、それは先の話さ。たぶん、この地区の民生委員が動いてくれると思うよ。まあ、いずれこっちが手助けすることもあるだろうさ」

「うん。わかった」

「さいわい、キューピーばあさんは一階で、火元から遠かったみたいだ。いのちに別状はなくて無事確保されたんだ。それだけでひとあんしんさ」

「でもキューピーさんは焼けちゃったんでしょう?」

「いや、それがだいじょうぶだったみたいなんだよ」
「えっ、ほんとに?」
「ああ、さっき、小耳に挟んだんだが、あのばあさん、人形を赤ん坊みたいに背中にくくりつけて、その上から買い巻きを被ってたらしいんだ。いやあ、人形大事の一念だなあ。いやいや、たいしたもんだな」

「へー、ほんとにー? 鞠子さんも無事だったんだ。うそみたいだけど、よかったあ」

しばらくすると、マイクを通して火事の様子を説明する声が聞こえてきた。火元は二階の角部屋で、ほぼ全焼したが、どうやら鎮火したらしい。

野次馬はそれを聞いて気が済んだのか、三々五々解散していく。いささか疲れた面持ちの消防士たちもホースなどの用具を片付けながら引き揚げていく。

ひなは、何人かがかたまって進んでいくその横顔のなかに、知らず知らず、さっき助け起こしてくれたオレンジの消防士を探していた。背の高いひとだったが、見当たらない。

「さて、俺たちも引き揚げることにするか」

「うん、冷えちゃったね、ひなちゃん。だいじょうぶ? 足のほう」

「うん。帰ろう。きっと母が心配してるしね」

 通りに出て車のほうへ向うと後ろから声をかけられた。

「あの、ひなさんてかたはどちらですか」

 三人が振り返ると、あのオレンジの消防士が立っていた。そのひとが自分の名前を口にしていることに、ひなは驚く。

「おう、ひなちゃんはこの子だけど、どうかしたかい? ……おっと、あんたはさっき内藤のばあさんを助けてくれたひとだね」

「はい。そのときに内藤さんは人形を抱えておられたのですが、さっき自分を呼ぶひなさんの声が聞こえたから、病院でなくなったらこまるから、これをひなさんに預けておいてくれと頼まれました。こちらで対応したものから関係者のかただと報告を受けましたので、これをお渡ししておきます」

 そう言って、オレンジの消防士はキューピー人形を差し出した。手袋をはずした手の指が長かった。

鞠子はちりめんの晴れ着を着ていた。公子はお正月が待ちきれなくて、着せていたのだろうか。あるいは火事とわかってからあわてて着せたのだろうか。

「……あ、ああ、ありがとう……ございました……あの、失礼ですけど……内藤さんにお知らせしたいので……お名前は?」

 燻されたような鞠子さんを抱いて、ひなが訊く。

「あ、自分ですか? レスキュー隊の土門といいます。……ひなさんって、さっきここで転んでましたよね。だいじょうぶでしたか?」

 土門がふっと白い歯を見せる。その瞬間、少年のような顔つきになる。ひなは困ってしまって、顔を伏せたまま頷き小さく答える。

「あ、あの、……その節ありがとうございました」
「ひなちゃんたら、膝小僧すりむいて、ココロが痛いんですって」

「あかねちゃん!」
「じゃ、失礼します」

 土門は笑顔を残して、まだきびきびと去っていった。

「あいつがレスキューの土門か。優秀そうな奴だな。それにいいおとこだ」

「うん。和風の男前ね。めずらしく、ひなちゃんが名前、訊いたりなんかしてさー。土門さんのこと、気に入ったの?」

「えっ、あっ、そんな……」

「あ、だめだ。ひなちゃん、ぽーとしてる。一目ぼれだわ」

「ぽーっとなんかしてないもん。絶対、そんなことないもん。お世話になったひとの名前はちゃんと聞いておくもんだって母がいつもいうから、で、す!」
ひながあわてて否定すると、ふたりは笑い出す。

「ひなちゃん、そんなムキにならなくてもいいよ。安心しな。あいつなら、あずさんも文句ないよ」

「おじさんまでそんなこと……」
「とうとう、ひなちゃんの思慕、炎上!」

「もうー、あかねちゃんのバカ! そんなんじゃないもん」

「ははは、わかったわかった。こういうことはなるようになるもんさ。さあて、もう日付がかわっちまってるよ。寒かったろう。俺も早く帰って一杯やりてえよ」

 統三の運転する車は来た道を帰る。風がおさまっている。町は次第に灯を落とし、暗がりに沈んで少しずつ眠り始める。

「明日、鞠子さんを連れて病院に行くね」
「ああ、それがいい」

気がつくとざわざわとしていた気持ちが消えていた。土門の指にリングはあっただろうか。ひなはそんなことが気になっていた。
                               (二十九枚)

枇杷屋敷




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