551895 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

文の文

文の文

映画とか。





「小説家を見つけたら」

「小説家を見つけたら」を見た。ショーン・コネリーは大好きな俳優さんだ。まったく惚れ惚れとするじいさんだ。寝巻きすがたがかっこいい。帽子も似合う。

しかし、いつものことなのだけれど、自分が一度見たはずの映画の記憶がなんと偏っていることかと思う。字幕を読んでいるあいだに見落としているものも多いのだろう。

少年がBMWについての薀蓄を言う場面とか、小説家が自転車で曲がるときに手を上げる場面などはああ、そうだったそうだったとよみがえるのだが、小説家がヤンキーズ・スタジアムで語る家族の話がすっかり抜け落ちていた。それはとても重要なエピソードなのに、てんで記憶になかった。

ただ、バスケットのボールの弾む音と古びたタイプライターの音だけは耳に残っていた。

小説家の若かりし頃の写真や肖像画は、なんだか007を思い出させるものだった。それはそれで愉快だったのだけれど・・・。

父親が出て行ってしまったブロンクスに住む16歳の少年とたった1冊の本を出したきりで世の中に背を向けてしまった小説家は、文章を通して、向き合い、通じ合っていく。そのいくたてのなんと胸躍ることか。

小説家が2本指でタイプを叩く。思いはすばやく文字になっていく。少年にやってみろと言う。少年がかちかちかちと打ち始める。もっと力強く叩け!と小説家が大声で言う。そして考えるな、感じるままを書け、とも。

そして最後には「もう教えることはない」と言う。小説家は二人のあいだの友情という言葉を使った。少年は血のつながらない家族だと思っていた。いいなあ、いいなあ、いいなあ。

ラスト近くに、小説家は故郷に帰ると言う。少年が「アイルランド?」と聞く。そこでショーンコネリーは憮然とした顔で「スコットランドだ」と答えるのだった。

恋愛適齢期

久しぶりに映画館でジャック・ニコルソンを見た。 LAでのレイカーズの試合中継でコートサイドでくつろぐ姿はよく見かけるのだが。そういえば、「恋愛小説家」以来だろうか。あれも、偏屈なおじさんだったなあ。

このたびはお尻まで見てしまった。そのなりゆきはなんとも愉快だったけれどあまり、キュートとは言いがたかったなあ。 白い石と黒い石。老眼鏡。浜辺の階段。タートルネック。なるほどそんなふうに印象深いものを散りばめるんだな、と一人納得している。自分の文章に足りない何かは、そういうものなのかもしれないなあ、ともおもっている。映画をたくさん見るひとの文章がうまいわけだわ、とかいまさらのことを痛感している。

***

さても、眉間に皺を寄せて、何か思い出せないものを必死で思い出すような、憮然とした表情になって、彼は泣いた。どこかが痛む子供のようにきつく目を閉じて涙をぬぐった。

そして「泣いたのは何年ぶりだろう。思い出せないな」と六十三歳のバチュラーは言った。恋する男はそんなふうだった。「恋愛適齢期」という映画を見た。

レディーキラー

ミシシッピー川に浮かぶカジノ船の売りあげをいただこうと企てた5人のいかにも異質な男たちの顛末。金は上手く手に入ったが、部屋を借りた未亡人がやっかいな存在になってしまう。そこで、彼女を亡き者にせんとして、ずっこけが始まる。

オープニングのシーンが印象的だ。ミシシッピー川にかかる橋の下を船が行く。カメラはそれを橋の欄干の飾りから見下ろす。垂直の視線の先を塵芥船がゴミの島を目指して静かに進んでいく。クライマックスもその船が運んでいく。ひとの営みを全て見てきた猫の存在も憎い。

英語がわかれば、この映画はもっと面白く楽しめただろうと思う。個性的な5人組の話す言葉の違いがおもしろい。

E.A.ポーの詩を優雅に暗唱するくせに、野卑た笑いの教授の英語。寡黙なアジア系の男のキメの一言。軍隊上がりふうの男の明瞭な英語。黒人の若者のヒップホップ系スラング。それと少々おつむのあたたかそうなアメリカンフットボール選手のくちごもったのたうつような英語。その五人の仕事ぶりの齟齬がおもしろい。IBSなるものの悩みなども知る。

そしてなにより南部の黒人ゴスペルの迫力。ストーリーはあっけなく終わってしまうのだが、文化の違いのようなものが愉快に楽しめる映画であると思う。

ディ アフター トモロー
地球温暖化の影響で北半球が氷河に覆われる。

その事態に対処する古気象学者を主人公に据え、NYで難にあった息子を彼が救出するまでのストーリーを軸に、天災に翻弄される人類のか弱さとそれでも通い合う思いを描いている映画であるように思うのだが、どうもピンとこない映画だった。

たしかにCGを使えばどんあ天災も見事に再現できてしまうのだけれど、その映像に見合った物語がないように思うのだ。人物像や心理状態やらがどうも中途半端なような気がするのだ。

そしてなにより、そのような厳しい条件でありながら、こんなんで凌げるの?というくらい、サバイバルに説得力がない。

暖炉で本を燃やすだけで氷河期を凌げるのかなあ。

主人公に絡む登場人物以外のひとの生き死にがあまりに無神経に扱われているようにも感じられた。

人類としてどう対処するのか、というスタンスがなかったからかもしれない。

それでもアメリカの人々が南下してメキシコ国境で密入獄して行く姿、「われわれは途上国の援助を受けている」というアメリカ大統領の言葉は今の世界情勢を、実にアイロニカルに抉っているのかもしれないが。

これから気温が上がって暑くなれば視覚的に涼むことができるかもしれない。それくらいの思いでご覧になればよかろうと思う

少林サッカー

少林寺拳法の宣伝の為にサッカー大会で優勝を狙う青年と、かつて少林寺でともに修業した仲間たちのおはなし。昔、黄金の右脚といわれたが、卑怯な同僚に陥れられ足が不自由になってしまった男が監督になり、今は金持ちとなり同僚のチームと決勝戦を戦うことになった。

見終わると「なんだかなあ」と思いがする。あまりに荒唐無稽。それは先刻承知の上なのだけれど、超人サッカーにしてはどこか貧乏くさくて、人間ドラマにしては鼻白む感じがして、お笑いにしては中途半端で、感動ものにしては盛り上がりに欠ける。

饅頭屋の女性がなんとも変だなあ、とか。キーパーはブルース・リーを意識してるなあ、とか鉄の頭の表情はあまりに悲しい、とか、対戦相手のオーナーが蝶野に似ていたなあ、とか、そんなに少林寺がはやってどうなるんだろう、とか、「なんだかなあ」なのである。

アメリ

・・・諸般の事情により、のびのびになっていたが、ようやくアメリのビデオが借りられた。そして、見た。

さても小粋なもんだった。これがフランスやねえ、と思う。いろんな評にあったようにやっぱり小道具のセンスがいい。年を重ねたおんながおんなでいる。恋に寛大だ。(やきもち焼きの男もいたが)

主人公の眸の動き、その靴とソックス、彼女の歩幅、ピタゴラスイッチのような念の入ったたくさんのたくらみ(ドワーフの旅は特にいいなあ)、八百屋のおっちゃんへのいたずら、同じアパートの模倣画家の老人(晩年のルノアールそっくり、筆を縛り付けるとこまでも)とやりとりするビデオ。それらがかもし出す世界でたゆたうのがいい。そして、ときどき、ふふふと笑ったりして見ればいい。

ただ・・・好意的なエピソードの積み重ねがどれも印象的で、脇役もみな存在感があったのに、アメリのBFだけどこか線が不確かな感じがした。だからこそ、アメリが恋したのかもしれないが・・・。

好評だった映画を周回遅れで見ると、ドキドキ感は減るけれど、安心してみていられる。その余裕で画面の作りなどをじっくり眺められる。部屋のインテリアや戸外の光のありようや背景のバランスなど、おおーとそうかあ、と驚いたり納得したり・・・。

Deep Blue

暑さしのぎにもなるけれど、生き物として、同じ地球に生きるものとして、うみのものはすげえな、と思わされる映像群だった。

海に生きる、生き続けるということにありのままの姿がそこにあった。身のうちのDNAに組み込まれた本能のレベルでの狩猟やら防戦やら回避やら慈しみやら遺棄やら、そのすべてに無駄がないと納得させられる。

紺碧は実に豊かな生き物の世界で、マリアナ海溝のどん底で、漆黒の闇のなかで、地球の芯に近いようなところで、ものすごい水圧や熱湯や硫化水素のなかで生きているやつらもいるのだ。高度な適応能力に敬礼。

その深海に潜っていったひとは宇宙を飛んだひとよりも少ないのだという。それは驚きだった。青い鳥ならぬ青い海だな。

この映像から食物連鎖と言う言葉は連想できても、その逆は普通の人間には無理だなと思う。

たくさんの恵みと計り知れない謎をはらむ紺碧の海のなかには目を見張る興奮と衝撃がある。思いがけないフォルムの美しさがある。深海で発光する海月やプランクトンにはだれもが目を奪われることだろう。

深海をも潜る探査船のなかにはいるのだけれど、映像として人間はひとりも出てこない。それでもこの壮大な映像をフィルムに納めきるまでに動いたひとのすごさが滲んでいる。どうやってこれを撮ったのかと考えるとちょっと鳥肌だったりもする。

ベルリンフィルの音楽が実に骨太で分厚く、広大な海とがっぷり四つに組んでいる感じがする。これでもか、というくらいに叩きつけるような音が耳に響くと、画面ではシャチがシロナガスクジラの赤ちゃんを狩っていたりする。どきどきする。

暖かい海はプランクトンも多くそれに養われる生き物で満ちているが、冷たい海には生きるために必要なものが少ない。青い砂漠という言葉が印象的だ。

寒さと飢えに堪えながら獲物を探すしろくまの親子や寄り添ってマイナス40度で吹雪に耐えながら卵を抱くコウテイペンギンの群れがこころに残る。

見終わってふうとクジラの潮吹きのような吐息をついてしまったのだった。いいよ、これ、すごく。

サンダーバード

その主題歌が流れると、遠い日にわくわくしたあの時間が帰ってくる。文楽のように糸で操られた人形が、ガラスとわかっていても考え深そうに見える双眸でこちらを見る。大切なのはひとの命だとその人形に教えられた。

その思い出が濃く自分の中に居残っているからか、実写版のこの映画がなにやら思いいれができないでいた。

個人的な好みなのだが、お父さん役の俳優-トルネードに出ていたちょっと髪の薄くなったあのひと-が生理的に受け付けないタイプなので、それがマイナスポイントだった。

プールが移動して椰子の木をのけて2号が発信するさまのなんと懐かしいことか!!

宇宙でひとり5号に乗ってる男の子は人形の面影があった。それもなんだか不思議な感じだった。

ペネロ-ペの声は黒柳徹子だったな。ピンクづくめの金持ちお嬢様はなかなか魅力的。

なにより驚いたのは、トレイシー島の基地にいた眼鏡の教授を演じていたのが、ERのグリーン先生だったことだ。 あのひとはトップガンでトム・クルーズの相棒で、メグ・ライアンの夫のグースをやった俳優さんだから映画に出ててなんの不思議もないのだけれど、ERではガンで死んだものだから、生まれ変わったひとに会ったような気分だった。

映画そのものはあまりいいなとは思えなかったが、どんな映画にも楽しめるところはあるのだと思えた。

チャンチャカチャーン、チャチャチャ、チャンチャカチャーン♪

何十年も前、テレビの前でそいつをくちづさんでいたのだと思うと、嬉しくもなるじゃない。ねえ。

誰も知らない

見終わって自分が泣いていないのが意外だった。感動してないのではない。この泣き虫のわたしの涙がこぼれなかった。

これは平成の「火垂るの墓」だと思った。自分の力で兄弟と共に生きようとしてその命を失ってしまう兄の姿がだぶるのだ。

ゆきが好んだアポロチョコの最後の一個はサクマのドロップを思い起こさせるし、紙を食べる弟は石を食べる節子を連想させる。

トランクにはいったまま埋められたゆきの墓の上を蛍ではなく、巨大な灯りをともした飛行機が轟音とともに飛ぶ。

あのアニメを見たときは止めようもなく涙が溢れたのに、この映画はわたしにじっとみていなさいと命じる。まだ生きている小さな命とともに生きようとする兄の姿を見つめていなさい、それがこの誇り高い明くんに対する礼儀だから、と。

それでも、ときおり目を閉じてしまいたくなった。だんだんと荒廃していく部屋のディテールが切なかった。自分のそのなかにいながらなにもできないでいるような無力感に襲われた。

母に捨てられて子供たちの逞しさの根っこにあるのは、母と過ごした時間だったのかもしれない。明くんは一番たくさんそれを持っているから小さい子を守ろうとしたのかもしれない。

スイングガールズ

最近見た映画でコレほど笑ったものはない。ドラムの女の子のキャラが立っていて、彼女が口を開くたびに、泣くほど可笑しい。彼女がツボだった。

ジャズをもっとよく知っていたら違う楽しみ方も出来たのかもしれないが、ジャスは青春を賭けるに値するものなのだというこの映画の主張のようなものに納得する映画だった。

ブローイングアップストーリーにはもう少し艱難辛苦が必要なのかもしれないとも思う。でないと教師の竹中直人があれほど苦労するエピソードが宙に浮く。

それにしても、川を挟んで男の子とサックスの上野さんが向かい合ってセッションするところはカッコよかったなあ。あれは醍醐味というものかもしれない。

自分が夢中になれるものを見つけた人間は幸せだね、と言っているような女学生たちの笑顔が印象的だった。ブランド品では得られない満足がそこにあるんだね。

ギターの女の子二人に振られた純情な兄弟は狩人のようだ。あのデュオは笑うしかない。

人間には2種類ある。この映画を見て笑うひとと大笑いするひとだ。

モンスター

自殺しようとしていた娼婦が同性愛の少女に出合った。そこで終わるはずの命がであったことで繋がった。

そうしてまた、彼女の人生のサイコロが転がりはじめた。

娼婦のすごろくは13歳から始まっている。いや、8歳で父親の友人にレイプされたときからだ。

彼女がその人生すごろくの岐路でえらんだみちはいつも悪いほうへ悪いほうへと進んでいく。

しかし、そこで少女とであったことで、今度は違うとおもった。

夢をみた娼婦。幸せという幻想を抱いてしまった娼婦。娼婦でなくなろうとする娼婦。

スーツをきて面接を受けに行った弁護士事務所や職安で、彼女の幻想は現実に打ちのめされる。

なにがどうあっても、金がなければ、暮らしていけない。腹は減る。少女はどうしてパーティーをしてくれないの、うそつき、となじる。

純粋なものは残酷だと彼女は思う。それでも愛するもののために彼女は娼婦にもどる。

また、サイコロが転がって、彼女は最悪の事態を招いてしまう。

殺さなければ殺された、最初の殺人。

そのあとから彼女はことさらに自分を大きく見せようとする。歩き方や仕草が男のようになる。そうしていれば、不安が消えると信じているかのように。

何人もの男を殺した。少女との暮らしを守るために。少女を愛しているから。だから殺した。

なのに、少女は彼女を売る。保身のために。法廷で少女は彼女を指差す。このひとか殺した!。最後のサイコロはそんなふうに転がった。あがりは死刑だった。

ハウルの動く城

かつて宮部みゆきさんが直木賞を取ったとき、井上ひさし氏が健気な長女がやっと報われるというような意味のコメントをしていた。

この作品もそんなふうにしっかりもので、家族の幸せをまず願ってしまう健気な長女の救済アニメであるように感じた。

魔法はシンデレラをお姫さまにしたけれど、ソフィーはおばあさんにされてしまった。

それでも健気な長女は年をとった自分を引き受けて、そういう立場で物事を見つめ発見していく。

妙なものに出会っても、そのものもそのままに引き受けていく。かぶらあたまもヒンも荒地の魔女ともいっしょに暮らす。

何より健全な生活態度、掃除して、洗濯してしっかりご飯を食べる。その当たり前が癒していくものがある。

夢ではなく現実をしっかる背負って、自分が今できることをくもりのない瞳で見据えて、思案して、皺だらけの手でこなしていく。

おばあさんはすごいぞ!。すごいおばあさんは一日にしてできるのではない。家族の幸せを自分の幸せと思う健気な長女が夢をつかむのだ。

自分の一番たいせつなものは自分で守る。自分の両手の精一杯の力で守る。そんな心意気を見せてもらった。

目の前にいるものの姿かたちの向こう側にそのもののほんとうの姿を感じ取れること。おばあさんになったら見えてくるものがある。

「年をとったら失うものがない」そんな言葉を纏った勇気を貰った。

ドライビング・ミス・デイジー

老いてホームに暮らすジェシカ・ダンディをその息子といっしょに彼女の運転手していたモーガン・フリーマンが訪ねる。
いっしょにたくさんの時間を過ごしてきた彼が感謝祭のパイをスプーンですくって彼女に食べさせる。

そんなふうに「ドライビング・ミス・ディジー」は終った。

ジェシカはモーガンを頼りきり、満足げな顔をしていた。
そのスプーンのひとすくいひとすくいがどんな言葉よりもたくさんのことを物語る。

もうとうに教師など辞めているのに、生徒に返す答案用紙がない!とジェシカがうろたえていた。
痴呆が始まったのか、記憶が混乱したジェシカはモーガンになだめられる。
こんなふうじゃ病院に送られてしまいますよ、と諭すモーガン。
ジェシカは混乱しながらも彼の手を握って「お前はわたしの一番の友達だわ」と言う。
胸が熱くなるシーンだった。

そこにいたるまでまでのふたりの長いみちのり。
黒人と裕福なユダヤ老婦人の友情はたくさんの山坂があり、お互いがなかなかに噛みごたえがある存在だった。

さても、そんなふうな老いの問題。
家政婦が突然死したときジェシカは「彼女は幸せよ」という。モーガンもそう思うと答える。

そうだ、そんな台詞を京都で何度も聞いた。

舅は脳梗塞で逝った。
「うまいこと死なはった。嫁さん孝行やてみんないわはる」
姑が繰り返しそう言った。

どんなふうに死ぬのか。
そんな難題が老いの先に待ち受けている。



© Rakuten Group, Inc.